倉木が「歌うこと」に初めて興味を持ったのは、小学校6年生の時である。当時倉木はピアノを習っていて、漠然と音楽に関わる仕事をしたいと考えていた。そのピアノのレッスンの中に音符を読みながら歌っていくというものがあったのだが、その歌を聴いた彼女の先生の「あなたはピアノより、歌が向いている」という言葉がきっかけとなり、歌の道に進みたいと考えはじめた[5]。
中学生になると、マイケル・ジャクソンのビデオを見たことをきっかけに洋楽、中でも特に女性アーティストの作品を聴くようになる。その後、マライア・キャリー、ホイットニー・ヒューストン、ローリン・ヒルなどを聴くようになり、彼女らのようなシンガーになりたいと真剣に考えるようになり、デモテープを作成して色々な会社へ送り始める。
その頃、ビーイングを組織し後にKANONJIの名で倉木のプロデューサーとなる長戸大幸と出会う。長戸は倉木のデモテープを聴いて高校生になってからのデビューを提案し、それまでは英語の勉強や色々な経験を積み、デモテープを何本も作るべきだと助言する。
高校生になると長戸の紹介でGIZA studioのスタッフと出会い、ローリン・ヒルの「To Zion」のカバーを歌ったデモテープを送ったところ、デビューが決定する[6]。16歳当時、オーディションではMAXの「Grace of my heart」を歌唱した。[7]
1999年
学校の夏休みを利用し、ボストンでデビューに向けたレコーディングを行う。
10月、アメリカのインディーズレーベル・Bip! Recordより、全米デビューシングル「Baby I Like」をMai-K名義で発売。
12月8日、日本デビューシングル「Love, Day After Tomorrow」をリリース[注 2]。同時期にオフィシャルウェブサイトがスタート。
2000年
「Love, Day After Tomorrow」が3月13日、発売より13週目で売上100万枚を突破。
2ndシングル「Stay by my side」が3月15日に発売され、オリコン1位初登場。オリコンTOP10に2曲同時ランクインすることとなった。
4月、千葉県内の高校から京都府内の立命館宇治高校へ編入。
3rdシングル「Secret of my heart」が4月26日に発売。オリコン2位初登場。この時点でオリコンTOP15内に3曲同時にランクするという快挙となる。
オフィシャルファンクラブ"Mai-K.net"とファンクラブサイトが発足。
マイケル・アフリックがラップを担当したシングル「NEVER GONNA GIVE YOU UP」が6月7日に発売(オリコン2位初登場)。
1stアルバム『delicious way』が6月28日、日本・台湾で同時発売。1週間で221万枚[注 3]という驚異的な売上でオリコン1位初登場となり最終的には400万枚に及ぶセールス[注 4]となった。
「Reach for the sky」がNHK朝の連続テレビ小説『オードリー』主題歌に決定。同番組主題歌では歴代最年少での起用であった。
CSのSKY PerfecTV!Ch.272で、初のパーソナリティー番組・The MUSIC 272『Mai-K TV』がスタートする。
2001年
自身が初めてキャラクター原案を手掛けたPlayStation用ゲームソフト『テクノビービー』がコナミより発売。
爽健美茶のキャンペーンによる初のライブツアー『爽健美茶 Natural Breeze 2001 happy live』を敢行。
立命館宇治高等学校卒業、立命館大学産業社会学部人間文化コース入学。この際の入学試験では学内推薦での入学が可能であったが、自ら「文芸入試」を選択し合格した。卒業論文のテーマは「ライブ文化の考察」であった[8]。
世界で初めてのIPv6を用いたスペシャル・インターネット・ライブに参加。
2002年
全米での1作目のアルバム『Secret of my heart』をGIZA USAから発売。日本でも逆輸入されたものが1月22日に発売された[注 5]。
全国アリーナ・ツアー『Mai Kuraki Loving You・・・ Tour 2002』を敢行。
資生堂のSEA BREEZEのCMがスタート。倉木にとって初のCM出演となる。
SEA BREEZE Feel it キャンペーンライブツアー『GIZA studio HOTROD BEACH PARTY』に出演。
『2002 FIFAワールドカップ オフィシャルコンサート KOREA/JAPAN DAY』に出演。6月30日にはテレビ朝日系列にてライブが放送され、地上波初登場となった。
全国ホール・ライブツアー『Mai Kuraki FAIRY TALE TOUR02-03』が倉木20歳の誕生日からスタートした。
2003年
B'zの松本孝弘ソロプロジェクトで、倉木が山口百恵の「イミテイション・ゴールド」をカバーしオリコン1位初登場を記録。
東京・大阪で計4日間行われたGIZA studioバレンタインコンサートに、同じ事務所の愛内里菜・GARNET CROWと共に出演。観客にはメッセージカードとチョコレートがプレゼントされた。またこのライブに先駆けて、WindowsMedia9シリーズ発表イベント『Digital Media Night』とバレンタインライブが同時開催され、そのライブ映像がWindows Media Player9シリーズのサイトでオンデマンド配信された。
「kiss」がSEE BREEZEのCM曲となり、同製品のCMへの2度目の出演となる。
α-STATIONにて倉木パーソナリティーによるラジオ番組『Mai K Baby I Like』がスタートした。
3月発売された「Time after time?花舞う街で?」から3ヶ月間連続でシングルがリリースされた。
スポニチ創刊55周年記念『ファミリーマート・ドリームマッチ 横浜F・マリノス対レッジーナ・カルチョ』のテーマ曲に『If I Believe』の「SAME」が選ばれた。
ニッポン放送『倉木麻衣のオールナイトニッポン いいネ!』で、生放送のラジオパーソナリティーを初めて担当した。
『第1回京都学生祭典』に参加し、平安神宮ライブを行う。また、倉木も実行委員の一員であった。
第54回NHK紅白歌合戦に初出演し、地元である京都の教王護国寺(通称、東寺)からの中継で、五重塔を背後に「Stay by my side」を歌った。これは、NHK紅白歌合戦初の国宝からの中継となった。
2004年
1月1日にベストアルバム『Wish You The Best』発売。オリコン1位に初登場、最終的には4週連続1位を独走し100万枚を突破するヒットに。
全国ホール・ライブツアー『Mai Kuraki 2004 Live Tour Wish You The Best?Grow, Step by Step?』が4月から7月にかけて行われた。このツアーで、単独ライブ通算100回を7月4日仙台サンプラザで達成した。また、ツアーと連動するかたちで、ライブドアのブログにて「Mai-K Diary」と題して本人による日記やツアーレポートが書かれた。他にもライブ配信、インタビュー、ブログをまとめたオリジナルアルバムのプレゼントなどの企画も行われた。
立命館のびわこ・くさつキャンパス(BKC)にて、『Rits倉木麻衣メモリアルライブ2004』が10月2日行われた。これまで「音楽と学業は別」と学内でのイベントを拒否してきたが、同キャンパスの開学10周年と産業社会学部創立40周年の記念イベントであり、デビュー5周年でもあったため、ライブが実現した。
第55回NHK紅白歌合戦に「明日へ架ける橋」で2度目の出演。
2005年
1月26日、シングルで初のセルフプロデュース作品「Love,needing」発売。
3月23日、通算20枚目のシングル「ダンシング」を発売。このころ大学を卒業した本人にとっては、人生の新しい門出に踏み出す人への応援歌にしたいという思いもあり、プロモーションも兼ねた記者会見を卒業式後に行う。
6月1日、「P. S?MY SUNSHINE」発売。
8月22日 - 28日、『Mai-k cafe』を開催。
8月24日、1年8ヶ月ぶりのオリジナルアルバム『FUSE OF LOVE』を発売。オリコン3位初登場。
10月、2008年の主要国首脳会議(G8)の関西開催の誘致キャンペーンの一環として、関係者に配布される誘致紹介用DVDに出演。
10月28日、ライブツアーのファイナル終了直後、彼女のコメント映像がブログとしてサイトアップ。