俳句
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ただ、先述のように使用言語による韻律の変化や、自然環境や季節を表す表現の差異などもあり、これらを含めるため俳句を「人と自然との関わりを対象とした短詩」と定義する立場もあるが極めてあいまいな印象とする見解もある[1]

なお、日本語を母語としない者が日本語で俳句を作ることもある。そうした俳人にはマブソン青眼ドゥーグル・J.リンズィーアーサー・ビナードなどがいる。

俳諧と和歌を比較すると、俳諧では和歌のような述語的語句(動詞、形容詞など)による叙述や心情の表現の手法ではなく、むしろモノ(物)やケイ(景)といった景物を際立たせて物事の動きや形容への深入りは避けようとする性質があるとされる[7]。これは季語の大半が名詞で、句の全体の立ち位置を決定するほどの意味をもつことにも表れており近世以来一貫した俳文化の特性になっている[7]

また、俳句結社の活動は句会での俳句の創作や相互批評を中心にしているが、これは連句(俳諧の連歌)における創作の形式が継承されたものである[1]。日本でみられる和歌や俳句などの文学活動は共同体的過程であるとされ、読者であり作者である作者的受容(writerly reception)を可能にするジャンルとして広まっていった[1]
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出典検索?: "俳句" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年2月)

明治

明治中期、正岡子規は、近世以来の月並俳諧を排して、写生を作句の根本に置き、自己の実感から生ずる新しい詩美を見いだそうとして、俳誌『ホトトギス』を刊行主宰した(1897年)。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。これらの子規の活動は、俳句革新運動と呼ばれている。

しかし子規の死後、日本派は高浜虚子河東碧梧桐の2派に分かれた。虚子は『ホトトギス』を主宰し、伝統的な季題や定型を守る立場をとった。一方の碧梧桐は写生主義をさらに徹底させ、自然観照における個性的な実感を重んじる立場をとった。虚子の俳風は、碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。

碧梧桐の門には、大須賀乙字荻原井泉水中塚一碧楼らがあった。乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア派の栗林一石路は、井泉水の門である。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後、慌ただしく離合集散を繰り返した[8]
大正

大正の初め、一方の虚子は再び俳壇に戻り、新傾向派と対立して季題・定型を提唱した。虚子は初め主情的傾向が強かったが、次第に客観写生の傾向となった。さらに「花鳥諷詠」を説くなどその句風が変遷したが、常に俳壇の主流を占めた。この派には、村上鬼城飯田蛇笏原石鼎前田普羅らをはじめ、昭和に入っても、高野素十松本たかし山口青邨富安風生川端茅舎らのすぐれた俳人を輩出した[8]
昭和

ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに『馬酔木』を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こった。

昭和10年代に入ると、新興俳句の主張は素材論にすぎないとし、俳句は「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする「人間探求派」というべき主張が起こった。中村草田男加藤楸邨石田波郷らである。

また大正から昭和にかけて、女性俳人の進出が目立った。杉田久女三橋鷹女中村汀女星野立子橋本多佳子石橋秀野らがいる。

敗戦後は桑原武夫の『第二芸術?現代俳句について』(1946年)によって、短詩型である俳句の限界が指摘された。それを契機に、伝統俳句と新興俳句とが積極的に交流し、新しい俳句についての省察が深まった。総合誌『俳句』が創刊(1952年)されたことも、流派を越えた活動のために役立った。

1947年(昭和22年)には吉岡禅寺洞らを中心に口語俳句運動が起こった。


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