俳句
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この派には、村上鬼城飯田蛇笏原石鼎前田普羅らをはじめ、昭和に入っても、高野素十松本たかし山口青邨富安風生川端茅舎らのすぐれた俳人を輩出した[8]
昭和

ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに『馬酔木』を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こった。

昭和10年代に入ると、新興俳句の主張は素材論にすぎないとし、俳句は「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする「人間探求派」というべき主張が起こった。中村草田男加藤楸邨石田波郷らである。

また大正から昭和にかけて、女性俳人の進出が目立った。杉田久女三橋鷹女中村汀女星野立子橋本多佳子石橋秀野らがいる。

敗戦後は桑原武夫の『第二芸術?現代俳句について』(1946年)によって、短詩型である俳句の限界が指摘された。それを契機に、伝統俳句と新興俳句とが積極的に交流し、新しい俳句についての省察が深まった。総合誌『俳句』が創刊(1952年)されたことも、流派を越えた活動のために役立った。

1947年(昭和22年)には吉岡禅寺洞らを中心に口語俳句運動が起こった。翌1948年には、山口誓子の『天狼』が、新鮮酷烈な俳句精神の発揮を目標として「根源俳句」説を提唱した。西東三鬼平畑静塔秋元不死男らがこれに参加した。また1953年(昭和28年)には、俳句の中に社会的人間を発表しようとする「社会性俳句」論が起こった。これらの論争は、その後長く続いた、しかし1958年更に悪化し1963年に、終わったとされる。 

安保闘争の前後は前衛俳句が盛んになった。金子兜太の「造型俳句論」「意識の造型」などが話題とされた。これに対して、「叙情の回復」を叫ぶ「リアリズム俳句」「季題論」も起こった。前衛俳句は、全共闘運動が鎮静した1970年代には急速に沈潜していった[8]
現代

俳句という最短詩型の孕む可能性が、様々な立場や切り口から探られている。伝統と前衛、個と社会、諷詠と造形、詩と生活など、俳壇の動向は一言で尽くし難い。流派・傾向にかかわりなく、21世紀初頭の俳壇で活躍していた俳人には、森澄雄石原八束三橋敏雄藤田湘子鷹羽狩行上田五千石・和田悟郎・川崎展宏夏石番矢佐藤鬼房飯田龍太田島和生石寒太長谷川櫂らがある。

なお、女性の進出は目覚ましい。第二次世界大戦後すぐに、細見綾子・野沢節子・桂信子らが登場して以来、津田清子・稲畑汀子中村苑子・鷲谷七菜子・岡本眸・熊谷愛子・黒田杏子らがいる[8]

また、現代の俳人は結社に所属している者が多い(結社に関しては俳句結社・結社誌の一覧を参照)。現在では、黒田杏子主宰の藍生(あおい)、石寒太主宰の炎環(えんかん)、金子兜太主宰の海程(かいてい)、田島和生主宰の雉(きじ)、中原道夫主宰の銀化(ぎんか)、長谷川櫂主宰(2011年からは大谷至弘主宰)の古志(こし)、小澤實主宰の澤(さわ)、小川軽舟主宰の鷹(たか)、有馬朗人主宰の天為(てんい)などの活動がある。

1989年(平成元年)、伊藤園が「伊藤園お?いお茶新俳句大賞」開始[9]1998年には松山市で全国高校俳句選手権大会(俳句甲子園)が始まった。俳句甲子園に初回から参画している夏井いつきは、「プレバト!!」(毎日放送)の中で2013年11月に開始した芸能人の「俳句の才能査定ランキング」で俳句を査定しており、俳句ブームをけん引している[10]。2012年4月からNHK俳句の中に初心者向け俳句講座「俳句さく咲く!」(Eテレ)を開始、同月「俳句王国」の後継で始まった「俳句王国がゆく」(Eテレ)がすべて地方での公開収録となるなどの影響もあり、老齢化し減少が続いた俳句人口にも変化がみられる。
特徴
要素

俳句の基本的特徴は「定型」「季語」「切れ字」の三つとされているが、これらについても議論がある[2][6]
韻律

俳句では五七五韻律を重要な要素とする[6]。五の部分が6音以上に、または七の部分が8音以上になることを字余りという[6]

例えば

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
芭蕉

は8・7・5で、上5が8の字余りである。その他、字足らず、句またがりなど5・7・5定型に収まらない作品もある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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