俳人
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一方で室町時代になると応仁の乱などの社会的混乱から優雅な貴族文化が失われるとともに俳諧連歌が盛んになった[1]

正統の連歌から分岐して成立した俳諧連歌は遊戯性を高めたもので、連歌の雅語に加えて俗語を導入し、江戸時代に入ると松永貞徳によって大成され(貞門派)、さらに西山宗因などの談林派が現れた[1][4]。その作者も貴族、武士、僧侶だけでなく、大都市の商人や職人、地方の農民にまで広がった[1]

17世紀松尾芭蕉が出ると発句(最初の句)の独立性の強い芸術性の高い句風(蕉風)が確立され、後世の俳句に影響を与えた[4]

明治時代に入り、正岡子規が幕末から明治初期のありふれた作風を「月並俳句(月並俳諧)」と呼んで批判し、1893年(明治26年)に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ、俳諧から発句を独立させた[5]。これ以降「俳句」の語が一般に用いられ、以降近現代の俳句につながるようになった[5]

俳句の基本的特徴は「定型」「季語」「切れ字」の三つとされているが、無季俳句自由律俳句もあり、俳句の要素については議論がある[2][6]。これについては日本国内では同じ詩型の川柳との差異として問われてきた[1]。また、英語などの非日本語による3行詩も「俳句」と呼ばれ、日本のオリジナルを尊重しつつも非日本語であることを強調して「Haiku」と表記されることもある。ただ、先述のように使用言語による韻律の変化や、自然環境や季節を表す表現の差異などもあり、これらを含めるため俳句を「人と自然との関わりを対象とした短詩」と定義する立場もあるが極めてあいまいな印象とする見解もある[1]

なお、日本語を母語としない者が日本語で俳句を作ることもある。そうした俳人にはマブソン青眼ドゥーグル・J.リンズィーアーサー・ビナードなどがいる。

俳諧と和歌を比較すると、俳諧では和歌のような述語的語句(動詞、形容詞など)による叙述や心情の表現の手法ではなく、むしろモノ(物)やケイ(景)といった景物を際立たせて物事の動きや形容への深入りは避けようとする性質があるとされる[7]。これは季語の大半が名詞で、句の全体の立ち位置を決定するほどの意味をもつことにも表れており近世以来一貫した俳文化の特性になっている[7]

また、俳句結社の活動は句会での俳句の創作や相互批評を中心にしているが、これは連句(俳諧の連歌)における創作の形式が継承されたものである[1]。日本でみられる和歌や俳句などの文学活動は共同体的過程であるとされ、読者であり作者である作者的受容(writerly reception)を可能にするジャンルとして広まっていった[1]
歴史[ソースを編集].mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "俳句" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年2月)

明治[ソースを編集]

明治中期、正岡子規は、近世以来の月並俳諧を排して、写生を作句の根本に置き、自己の実感から生ずる新しい詩美を見いだそうとして、俳誌『ホトトギス』を刊行主宰した(1897年)。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。これらの子規の活動は、俳句革新運動と呼ばれている。

しかし子規の死後、日本派は高浜虚子河東碧梧桐の2派に分かれた。虚子は『ホトトギス』を主宰し、伝統的な季題や定型を守る立場をとった。一方の碧梧桐は写生主義をさらに徹底させ、自然観照における個性的な実感を重んじる立場をとった。虚子の俳風は、碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。

碧梧桐の門には、大須賀乙字荻原井泉水中塚一碧楼らがあった。乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア派の栗林一石路は、井泉水の門である。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後、慌ただしく離合集散を繰り返した[8]
大正[ソースを編集]


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