正教会をはじめとする東方教会の修道院では、信徒の日々の祈りと公祈祷に欠かせないイコンの製作という重要な役割を今日に至るまで果たしている。8世紀、東ローマ帝国皇帝が主導した聖像破壊運動に対し、抗議運動の先頭に立っていたのは東方の修道士達であった。
ヌルシアのベネディクトゥスが、「すべて労働は祈りにつながる」と言ったように中世以来の修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院の一員が手分けして行っていた。そこから、新しい技術や医療、薬品も生まれている。ヨーロッパに古くからある常備薬の中には、修道僧や修道女の絵柄がよくみられるのはそのためである。ヨーロッパのワイン(ミサ・聖体礼儀に欠かせない)、リキュール(薬草酒等)、ビールは今でも修道院で醸造されているものも多い。
中世の修道院は王権の保護のもとに原野や森林を切り拓いた[2]。修道会の資産は世俗の地主と違い遺産配分などで分散されることもないため、広大な土地を治める地主となっていった。経済力のある修道会はモールドボード・プラウなど、貧しい農民には手の届かない農業革命の技術を率先して取り入れることができた。時とともに修道院は、修道士が自作するのではなく土地を貸し借地料を取る、水車や風車による製粉権で収入を得る、収奪した余剰食糧を商材に市場を運営する、蓄積した富で金融業を営むなど、清貧とは程遠いアグリビジネスへと変貌した[2]。
イギリスではヘンリー8世とバチカンの対立をきっかけとしてイングランド国教会が立てられたため、全てのカトリック系修道院は接収されて存在しない。 修道院が先進技術の発展に貢献した例は多数ある。14世紀・15世紀において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の輪作技術を導入したのは、ロシア正教会の荒野修道院群であったと考えられている[3]。カトリック教会・聖アウグスチノ修道会の修道士かつ司祭であり、のちには修道院長も務めたグレゴール・ヨハン・メンデル (1822-1884) は、遺伝に関する法則(メンデルの法則)を発見した事で有名である。 また、医療、病院もそのルーツは修道院にある。旅人を宿泊させ巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス(hospice)が、余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設の意味のホスピスに転嫁したこと、歓待する(hospitality)が、病院(hospital)の語源でもある。修道院でリキュール(薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来する。 中世ヨーロッパではイスラム圏からの知識導入が進み、多くの医学行為も移行、同化された[4]。結果として、園芸/ガーデニングが薬用としても特に重要となった[5][6]。例えば、ケシの茎の皮をすりつぶして蜂蜜と混ぜると、傷口の絆創膏として使用できたし[5]、その他バラ、ユリ、セージ、ローズマリーなどの香草や植物は、頭痛や腹痛などの内的合併症に使用した[7]。アーモンドは睡眠補助や排尿促進、月経誘発に効果があるとされていた。 実際、修道士らはこれらの薬草を自分のためだけでなく、地域社会の治癒のために使った。著書が残るルペルツベルク修道院の創設者であるベネディクト会のヒルデガルト・フォン・ビンゲンは修道院に住んでいた修道女であるが[6]、ヒルダガルトはその幅広い執筆活動以外に、ヘンリー二世
修道院と先進技術・医療行為