擬人法と逆に、人の動作や様子を物質に喩える手法があり、これを「擬物表現」、「結晶法」、「実体化」(原義は Hypostatization《英》)などと訳している。以下は例文である。 擬人法と対照的な概念に動物形象や無機物形象
黙々と働く彼の姿は、言うなればロボットである。
彼女の笑顔が、僕にとって元気の薬だ。
彼が持つ強運を、少しは分けて欲しいぐらいだ。
生物形象・無機物形象(擬人表現と擬物表現の逆相関)
ある人間以外の生物・無機質の物体・自然現象などが、その特徴や生態などから、ある特定の擬人表現がなされることが広く周知されている場合に、逆に人間像をその生物・物体・自然現象などに例える用法である。
この表現例として、古来各地で「あの人は?のような人だ」の「?」に様々な生物形象・無機物形象が用いられている。
アリのような人社会性のあるアリ、特に働きアリのイメージに例え、勤勉な人物あるいは黙々と自らの属する組織に尽くす人
カメレオンのような人自らの外敵からの攻撃をさけるため、周囲の環境によって体色を自在に替えるカメレオンのイメージに例え、自分の周囲の状況を察知して主義・主張や振る舞いをコロコロ替える人、世渡り上手、お調子者
風見鶏のような人「カメレオンのような人」と同義
ハゲタカのような人健康な相手は決して襲わないが、ひとたびその相手が衰えたり死んだりすると、よってたかってその肉をむさぼるイメージにたとえ、人の弱みにつけこんで自分の利益をむさぼる人
貝のような人二枚貝が堅く殻を閉じているイメージに例え、無駄な口を開かない人、ないしは身持ちが堅く防御的傾向にある人
太陽のような人太陽系を成す恒星に例え、その系統の中心となるような人、あたたかい人
倒置法詳細は「倒置」を参照
文章は通常、主語?目的語?述語 の順で記述されるが、この順序を倒置(逆転)させ、目的語を強調する手法のこと。
私は宝の在処を突き止めた。(通常)
私は突き止めた、宝の在処を。(倒置法)
突き止めた、宝の在処を、言うまでもなく私が。(主語も倒置した形)
反復法詳細は「反復法 (修辞技法)」を参照
同じ語を何度も繰り返し、強調する。連続して反復する場合と、間隔を置いて反復する場合がある。
「高く高く、青く澄んだ空」
「我が母よ 死にたまひゆく 我が母よ 我を生まし 乳足らひし母よ」(斎藤茂吉)
同語反復詳細は「トートロジー」を参照
同じ言葉を二度用いることで、語気を強める用法。トートロジー (Tautology) の訳語の1つ。
例文
それはそれ、これはこれだ。
まあ約束は約束だ。したからには守らないとな。
首尾同語(反照法)詳細は「隔語句反復」を参照
別の場面で全く同じ表現を用いる手法。たとえば冒頭に、「平和な朝だ」と記し、巻末に「平和な朝が帰ってきた」などと表現する。反復法の一つである。
他の用例として童話『モチモチの木』なども首尾同語の好例である。一人で便所に行けない臆病な主人公がクライマックスで疾風怒濤の勇気を振り絞っているのに、巻末ではやはり一人で便所には行けなかったと記され、話が締められている。 体言(名詞・名詞句)で文章を終えること。名詞止めとも称する。言い切らずに、文の語尾に付ける終止形を省き、体言で止めて、強調させたり、余韻を残すことをいう。もともとは俳句や短歌の技法だったが、1990年代に若年層で流行した。それ以前から星新一をはじめとする小説家が著作で盛んに用いており(例:「私は科学者。実はこの…」)、このことも影響しているであろう[独自研究?]。 特に感動を表現するために、例えば「水が流れる」という文の主語・述語の順番を逆にして「流れる水よ」のように体言で止める言い方を、喚体句という。 実際の主張を疑問の形で書いているが、強い断定を表す用法。また、肯定の形で表しているが、強い皮肉を表すこともある。種類として皮肉法、反語的讃辞、反語的期待、反語的緩和、反語的否認などがある。 否定表現となることが多いが、肯定表現が来ることもある。 見せかけは肯定文であるが、中身はまるっきり皮肉を交えた反語となっている。広義では皮肉法ともいえるが、違いは長所を述べておきながらその長所を内面で否定している点である。 表向きは肯定しているが、実際は「会社を辞めるな」と強く相手に訴えているのが分かる。 皮肉も自嘲も含まれていないが、能動と受動の関係が逆転しており、ここでは待たされた相手が敢えて、自分から待つことにしたと反転して表現することで、体裁の悪い相手の立場を和やかに変えている。無論、相手にとっても待たせることに対して貸しを作った覚えなどないはずであるが、結局は「お互い様だよ」と訴えているようになっている。 反語的期待の逆。表現上では否定だが、文章上では正しいことを述べる肯定となっている。 対象物との密接な関係を表す手法。「?よ」などの形になることも多い。 全体に一定のパターンを与える目的で、2つ以上の文の部分に類似の形式を与えること。対句法、平行構造、平行体, 並行体とも言われる。ヘブライ語の聖書、漢詩をはじめ、広範に使われる。 漢詩やことわざで使われる場合は「対句」という言葉があてられる。2つ以上の語呂の合う句を対照的に用いる。もともとは漢文の駢文におけるテクニックの一つで、日本語では漢字、漢文の伝来とともに使われるようになり、現在においても、日本語の表現方法として無意識に使用されている。例として、 などがある。 四字熟語での例は枚挙に暇がない。二つの二字熟語
体言止め
反語詳細は「反語」を参照
反語の用例
昔は美しい街だったと言っても、だれが信じるだろうか。(いや、誰も信じないだろう。)
あの社長の経営方針のせいで、どれだけの労働力が犠牲になったことか。(多くが犠牲になったのだ。)
反語的讃辞の用例
おやおや、ずいぶん丁寧な扱いだこと。(とてもひどい扱いだ。)
君の達筆な字じゃ上司に見せるのはちょっとね…。
資金力で大物選手を寄せ集めてるわけだし、そんなスター軍団が負けるはずないよね。
反語的期待の用例
君が会社を辞めるかは自分で決めることだ。君の実績は上も高く評価している。それに、君の接客を楽しみにしてる客もいっぱいいるしな。
反語的緩和の用例
待った、だなんて思ってないよ。この前だいぶ待たせた借りがあるしね。
反語的否認の用例
以後の彼の活躍は、敢えてここで書く必要もないだろう。
パラレリズム詳細は「パラレリズム」を参照
対句詳細は「対句」を参照
しかあれども、よにつたはることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらがねのつちにしては、すさのをのみことよりぞおこりける。(古今和歌集)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」(平家物語)
温故知新
支離滅裂
南船北馬
詩歌などで同じ音を決まった場所に繰り返し使うこと(=韻を踏むこと)。語句の頭の音を揃えることを頭韻法、語句の終わりや行末を揃えることを脚韻という。
やわらかに柳(やなぎ)あをめる北上(きたがみ)の
岸辺(きしべ)目に見ゆ
泣けとごとくに(石川啄木)
括弧やリーダー、ダッシュなどを使って、語り手が説明を補足したり、弁明したりする表現。
説明補足の用例
少なくとも、彼の方が生徒会長に相応しいと思う(といっても、どっこいどっこいだが)。括弧で説明を補足することで、要はどっちでも同じ、双方相応しくないと思っている第三者の心理が読み取れるようになる。
弁明の用例
彼は(時期尚早だとは思いつつ)、社長に新事業について提案してみた。括弧を入れなくても文章の内容は通っている。これを括弧に含めることで、主語の人物の躊躇(僭越じゃないかという懸念があったという弁明)がよりはっきり透かし彫りされるようになる。
省略法詳細は「省略」を参照
文章や会話の一部を省略すること。西洋修辞学では、省略された要素は文脈などから推断かつ復旧することができる。内容を短縮する目的で使われることが多い。くびき語法もその一種である。
文学の技法として、余韻を残し、読者に続きを連想させる意図的な省略 (Purposeful omission) もある。専ら、省略した部分にはダッシュやリーダーが使われる。
用例
彼の暮らしぶりはとても贅沢だ。高級外車、腕時計、宝飾品、そして瀟洒な邸宅…。相手の贅沢な暮らしぶりの一例を列挙しているが、敢えて全部挙げる必要が無いため、めぼしいものだけを採り上げており、同時にその相手に対して、強い感嘆を訴えている。
あいつほどいい奴はいなかった。…なのに、なんであんな喧嘩をしたのだろう。文脈の上では、リーダを省略しても意味は通じている。しかし、敢えてリーダを入れることで、その間に主語の人物が抱いている悔恨、困惑の念を読者に訴えかける仕組みになっている。
戦争ですっかり燃え尽きた街―。―あれから数十年、あの頃を知っている者は少なくなった―。ダッシュが頻繁に用いられる例。ダッシュで被災都市の経歴、さらにそこから抱いた作者の感情全てを省略しており、より強い感情を読者に訴えるようになっている。
また、漫画や小説などでは「…」など相手の会話や吹き出しにリーダーだけが用いられることがある。