近世ヨーロッパの修辞学は、様々な芸術に影響を与えることもあった。例えば、記憶術の思考法が、ルネサンス期の劇場や庭園の設計に影響を与えることもあった[13][14]。あるいは、バロック音楽の音楽理論に修辞学が取り入れられることもあった(音楽修辞学)[15]。あるいは、ティツィアーノの絵画『ヴィーナスへの奉献』などのように、古代の弁論家が残した「エクフラシス」と呼ばれる文献群に由来する絵画が描かれた[16]。 前近代のインドや中国・日本には、古代ギリシア由来の修辞学(弁論術・説得術)はほぼ伝播していない。イエズス会の中国宣教師ジュリオ・アレーニ(艾儒略)によって「文科」と漢訳されて紹介されたり[17]、長崎のコレジヨで修辞学講義が開かれたりしたが[18]、伝統として根付くことは無かった。 ただし、修辞学と似たもの、あるいは文彩・文学理論という意味での修辞学(修辞技法)の伝統は各地域にある[19]。例えば、バーマハ
東洋への伝来
明治日本において西洋の rhetoric が受容されると、音訳から漢訳まで様々な訳語が当てられた[24]。例えば、1870年代初頭の西周の場合は「文辞学」と訳した[24]。その後、尾崎行雄『公会演説法』(1877年)、菊池大麓『修辞及華文』(1880年)[注釈 1]、黒岩大『雄弁美辞法』(1883年)などで rhetoric が紹介された[25]。とりわけ、高田早苗『美辞学』(1889年)は、内容は rhetoric だけでなく美学も含むものの、坪内逍遥や武島羽衣によって日本の「修辞学」の草分け的な書物に位置付けられた[26]。この『美辞学』の後、島村抱月『新美辞学』(1902年)や、五十嵐力『新文章講話』(1909年)によって、上記の『文心雕龍』などの和漢の伝統と rhetoric が結び付けられた[27]。以上のような修辞学の研究は、大正以降は衰退したが[28]、上記の20世紀後半の佐藤信夫らによって再興された。
明治日本では、以上のような修辞学の研究と並行して、福沢諭吉を草分けとする「演説」の文化も流行し、自由民権運動を後押しした[29]。
中国では、1900年代から日本の諸著作の影響を受けつつ rhetoric が紹介された後、早稲田大学留学生で五十嵐力の教え子でもある陳望道が『修辞学発凡』(1932年)を著し、以降の中国修辞学の草分けとなった[30]。
「修辞」(辞を修める)という漢語は古くからあり、『易経』の一節「修辞立其誠」(脩辭立其誠、通称「修辞立誠」)に由来する[28][31]。荻生徂徠や章炳麟は、それぞれの思想のもとに「修辞立其誠」を解釈して論じていた[32]。 近代以降、修辞学はさまざまな学問に分化し、あくまで言語表現に磨きをかける技術、という領域に押し込められていった。 ただし、20世紀後半以降、様々な観点から伝統的な修辞学が再注目されることもある。具体的には、文学理論、物語論、ディベート術、プレゼンテーション術、コミュニケーション学[33]、非形式論理学[34]、議論学、クリティカルシンキング、アカデミックライティングなどの観点から再注目される。とりわけ、ロラン・バルト、ポール・リクール、カイム・ペレルマン、グループμ
現代
主な修辞学者「Category:修辞学者」を参照
主な原典文献
プラトン『ゴルギアス』
アリストテレス『弁論術』
キケロ『弁論家について(英語版)』
クィンティリアヌス『弁論家の教育(英語版)』
以上のほかにも、主要文献の日本語訳が、1990年代から京都大学学術出版会「西洋古典叢書」の一環として順次刊行されている[37]。