修身
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明治維新により日本は五箇条の御誓文による開国進取の国是を採用した。神仏判然令が公布され、廃仏毀釈が行われた。また、五榜の掲示により、キリスト教の厳禁政策が続いた。明治元年(1868年)9月の『大学校御取立ノ御布告』によって「漢土西洋之学ハ共ニ皇道ノ羽翼」であると位置づけられ[9]、皇学の復興により旧来の儒学は排撃され[10]、日本の国体に基づく和魂洋才和魂漢才が唱えられた。

1871年、寺請制度が廃止され、氏子調規則が施行された。
学制下の道徳教育
学制の成立

日本は明治維新によって近代国家としての歩みを始める[11]が、明治政府は教育に関して当初から困難を抱えていた[12]。それは教育の中心を国学、漢学(儒学)、そして洋学のどれに据えるのかという問題である。政府は王政復古の理念に従って国学を中心にすることを考えるが、これには漢学派が反対して折り合いがつかず、結局、各学派の主導権争いの末「実学性」に富んだ洋学を主体とすることになった[13]。そして、このような考えの下、1871年(明治4年)に文部省が設置され、翌年には『学制』が制定された[14]。この1874年の学制の制定をもって日本における近代学校制度が発足したとされる[11][15]。なお、この学制の起草委員である「学制取調掛」はそのほとんどが洋学者であった[13]

この学制に先立って、学制の精神理念を示す『学制奨励に関する被仰出書』(以後は単に被仰出書と呼ぶ)が太政官布告の形で宣言され、その内容は

人々の立身出世のために、学校では学問を授ける。

学ぶべきこととは、単なる文章の暗記などではなく、読み書き・算数の知識であり、これは誰もが必要とするものである。

全ての人が学校に通い学ぶ必要がある。

というものであった[11]。この被仰出書は福沢諭吉の『学問のすすめ』の影響を受けていると考えられており、それゆえ啓蒙主義的な内容となっている[13]

学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。 ? 福沢諭吉『学問のすすめ』
修身の成立

学制の中では、道徳教育は「修身科」が担うことになっており、以後、1945年までこれが続いた[16]。これにより、小学で「修身」、中学で「修身学」という教科が置かれることになっていたが[17]、実際には下等小学の低学年に「修身口授(ギョウギノサトシ)」という教科が全授業時間数の3%程度置かれただけであった[17][18]。さらに、その授業形態は教師の談義や口述によるものであり、教科書はほとんどが欧米の倫理書等の翻訳本で[19]、内容も法律書のようであり[16]、児童が容易に理解できるものではなかった[20]。ただ、東京師範学校刊行の『小学校生徒心得』(1873) は児童・生徒に対する日ごろの心得を教えたものであったという点でこれらの教科書とは違ったものであった[21]

西洋の翻訳教科書とはいえども、1873年氏子調規則が廃止されるまで邪宗門(キリスト教等)は禁止されていたため、例えば『民家童蒙解』では原書でキリスト教に基づくものが、訳書で東洋思想に基づくように置き換えられている[22]

このように、学制においての道徳教育(修身科)は民衆にとって実生活に直接関連したものであったとはいえず[20]、あまり重要視されてはいなかった[17]。そして、このような性格を持ったこの時期の修身科は後に教育の重要性が叫ばれるようになると批判の矢面に立たされることになった[23]。ともあれ、このような問題点を抱えつつも、学制において道徳教育は「修身科」という教科の一つとして開始されたのである。
教育令と儒教主義への回帰
学制への批判と教育令

こうして始まった学制と修身科は一定の啓蒙的役割を果たしたが[24]、以下のようにいくつかの問題を抱えていた。

教育費の受益者負担[25]

強制就学による労働力の喪失[24]

実生活を無視した教育[21]

さらに、同時期、士族の反乱や自由民権運動により政治的緊張の高まっており、これに相まって、明治政府の欧米化政策に対して強い反発が現れるようになった[24]。このような中で、もともと、「欧米化」により日本人としての精神が失われることに強い危機感を持っていた儒学者からは「教育の精神的よりどころを従来の儒学的思想に置くべきだ」との意見が噴出した[26]


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