修学旅行
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近代教育史上、類似する校外学習的事例としては、1877年(明治10年)の設立当初から東京大学で実施されていた各学部教員・生徒らによる動植物採集・地質調査・貝塚発掘などの専門教育としての「実地研究旅行」[3]や、1881年(明治14年)に栃木県第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の生徒らが教員の引率で第二回内国勧業博覧会(東京・上野公園)を観覧した[要出典]という単発的事例などがあるが、定期的な学校行事として、今日に至る「修学旅行の嚆矢」[4]とされているのは、兵式体操導入[5]を契機として実施された東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)による軍隊式の「長途遠足」である。

この遠足については、当時の新聞や教育雑誌で多くの事前事後報道がなされ[注釈 2]、『大日本教育会雑誌』第30号(1886年4月)掲載の最も整備された報告日誌「東京師範学校生徒長途遠足」によれば、1886年(明治19年)2月15日?25日、同校男子師範生徒99名は「戎装」=軍装で、「銃器及ヒ背嚢外套毛布ヲ附着シ、数部ノ兵書及ヒ靴、靴下シャツノ着代ヘ等数品」を携えて、東京?千葉県銚子間を往復行軍したという(兵式及び学術教員[注釈 3]・職員を含め総勢121名)。その実施にいたる経緯は[6]、同校監督を兼任した初代文部大臣森有礼による師範教育改革において、兵式体操などの軍隊的規律訓練が過度に導入されることに抵抗した高嶺秀夫校長及び教員らが、当初予定されていた行軍・発火演習[注釈 4]に「諸学科ヲ実地ニ研究」する要素(気象観測・測量・動植物採集・写生・名所見学・貝塚採集・学校参観など)を採り入れたとされる。それら実地研究は、当時の教員らにとっては各専門領域の基礎的実習であり[注釈 5]、また高嶺秀夫が主導していた開発主義教育(実物教授)によって必然化された方法的実践であり、かつ教材としての実物資料の発見収集という当時の師範教育特有の技術的実習[7]を兼ねていた。明治大学高等予科の修学旅行
(1904年11月、日光東照宮門前)京都市立第一工業学校の修学旅行
(1933年、平壌玄武門)山口高等女学校高等科の修学旅行
(1937年、水師営会見所

「修学旅行」という名称の初出は、『東京茗溪会雑誌』第47号(1886年12月) 掲載の報告書「高等師範学校生徒第二回修学旅行概況」であり、これは東京師範学校が師範学校令により高等師範学校に改編後の1886年8?9月、男子師範学科生徒が長途遠足と同形式で下野地方(塩原・日光)へ旅行した過程と成果を詳細にまとめたものである(「第二回」とは長途遠足を第一回とみなしたことを示す)。この後、翌1887年(明治20年)3月に同校は正式に修学旅行の実施期間を定め[4]、実際、当時の報道によれば、同年2月には鎌倉・駿州地方へ[8]、8?9月には長野・山梨・静岡・神奈川を縦断[9]、88年3月には再び房総へ[10]、同年7?8月には群馬・新潟・福島地方へ[11]と、継続的に実施された。ただし、すでに1887年末には「一泊以上の行軍は、夏冬両季休業中、及び春期試験の後に限り、これは学術研究旁々することとして、兵式体操の用具を携帯せしめず、常時臨時に於てするものは総て一泊がけ若くは一日往復と定めて、兵式教師の引率に任ず」[12]と改め、1888年以降は学術研究としての修学旅行と兵式体操としての行軍演習とが事実上分離された[13]

一方、女子生徒による修学旅行もまた、高等師範学校の女子師範学科(現・お茶の水女子大学)によって1887年の夏季休業中に千葉県へ向け実施されており、修学旅行とは明記されていないが、『教育報知』第79号(1887年8月)は、「高等師範学校女子部の遠足」という見出しで「避暑傍ら地理博物等実地研究のため上総鹿野山地方へ、去九日出発し凡そ二週日間の遠足」と報じている。女子生徒は兵式体操とは無縁であったことから、この遠足は専ら学術研究を目的とする文字通りの修学旅行であり、同校男子生徒のそれを先取りしていた。

1886年の尋常師範学校及び尋常中学校等の体操科への兵式体操の正式導入とともに[注釈 6]、1887年以降、長途遠足をモデルとした集団旅行も府県尋常師範学校を中心に急速に普及し[注釈 1]文部省もその師範教育における有益性を追認した[14]。文部省が尋常師範学校の行事としての修学旅行を法令上に明記したのは、1888年(明治21年)の「尋常師範学校設備準則」であり、末尾に列挙された諸支出項目に「修学旅行」を掲げ、「修学旅行ハ定期ノ仕業中ニ於テ一ヶ年六十日以内トシ可成生徒常食費以外ノ費用ヲ要セサルノ方法ニ依リテ之ヲ施行スヘシ」と経費上の実施基準(制約)を示した[注釈 7]。ちなみに、1883年段階で東京師範学校が生徒に支給した学資金は一ヶ月6円、そこから月々食料費として3.25円(一日当たり約10銭)を徴収した[15]。高等師範学校では1898年段階で被服費とは別に一日当たり14.5銭の割合で食費を月々支給、修学旅行時は食費の代わりに旅費が支給され[16]、府県の財政に左右される尋常師範学校に比べ恵まれていた。


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