1896年(明治29年)には、長崎県立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)が上海(当時は清国)への修学旅行を敢行しており、日本初の海外修学旅行とされている[17]。
1890年代以降、修学旅行が中等教育の諸学校を中心に全国的に普及する一方、文部省普通学務局(澤柳政太郎局長)は時間と費用の空費となりかねない修学旅行の目的、旅行先の適否、適切な事前事後教授の方法について指針を示すべく、1900年(明治33年)に参考図書『独国ノ修学旅行』を編集発行した(12月12日普通学務局通牒にて中等学校への配布依頼)。ドイツの教育旅行を参考とした同書では、「修学旅行トハ全校生徒ガ一人以上ノ教師ノ指導ノ下ニ少クトモ二日(宿泊ヲナシテ)旅行シテ体育知育情育意育ニ等シク益セシメルコトヲイフ」と定義され、ドイツの教育学者クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンがシュネッフェンタールの学校で1784年から1803年まで数回実施したモデルが紹介された[18]。
19世紀末?戦前期には、鉄道の普及と団体割引料金導入などのインフラ整備も進み、高等小学校にいたるまで修学旅行が学校行事として定着していった。1940年(昭和15年)6月の文部省による修学旅行制限の通牒[19]、戦時体制に伴う1943年(昭和18年)以降の実質的禁止まで、戦前には、伊勢神宮、橿原神宮、厳島神社、金刀比羅宮といった国家神道教育に通じる神社を目的地とする参宮旅行が盛んに行われた[20]。これらは敬神思想の啓蒙を目的とするもので、現在のような古美術観光も一部で行われてはいたものの[注釈 8]、1940年以前の修学旅行のガイドブックでは古美術観光を取り入れた事例は目立たず、一般的とは言えなかった[21]。また、旧制の高等商業学校では、「海外に雄飛する人材の育成」を標榜していたことから、朝鮮半島や満蒙地域など東アジアへの、いわゆる満鮮旅行(満韓旅行)を実施し、東亜同文書院のように旅行後学生に報告書の提出を求めるケースもあった。
太平洋戦争後は、1946年(昭和21年)に大阪市立東高等女学校(現・大阪市立東高等学校)が九州・阿蘇への修学旅行を再開したのが始まりとされる。本格的な再開は1950年代以降で、同時に古美術観光が積極的に取り入れられている。修学旅行関係者のための専門誌として発行された機関紙『修学旅行』(日本修学旅行協会発行)では、古美術観光を修学旅行に組み込むことが奨励され、教師向けに各社寺が持つ所蔵古美術品の解説、写真を用いた事前指導、現地での実地指導例、古美術見学の教育理念などが取り上げられている。この転換の理由は、1950年代半ばの社寺観光ブームや、戦前の参宮旅行のような国家主義教育否定の方針、交通の利便性や団体宿泊の受入れ環境などを考えあわせた場合、旅行先は必然的に京都・奈良中心にならざるを得なかったためと考えられる[20]。また、1970?1980年頃までは、現在のように交通インフラが多様化していなかったため移動手段には専ら鉄道が利用され、あらかじめ専用列車のダイヤを決めて数校の修学旅行客輸送を一括して請け負う修学旅行者専用列車の設定も見られた(詳しくは修学旅行列車を参照)。その後、私立高校では1970年代後半以降、国立高校・公立高校においても1990年代後半以降には航空機を利用するケースも増え、特に私立高校では1980年代後半以降、海外旅行を選択する学校が増加した。
全国修学旅行研究協会は、2021年度に全国の中学校、高等学校で実施された修学旅行の実態を調査し、「2021(令和3)年度 コロナ禍と修学旅行」にまとめた。それによれば修学旅行の実施率は中学校で85.4%、高等学校で76.1%となり、2020年度のそれぞれ56.0%、31.3%から上昇した。 2020年度の修学旅行は、新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大により影響を受け、多くの学校で中止された。特に海外への修学旅行は皆無となった。全国中学校の修学旅行実施校は8544校、実施率は85.4%だった。うち公立中学校の修学旅行実施校数は8134校で実施率は88.1%、私立中学校の修学旅行実施校数は410校で、実施率は52.7%だった。全国で89万7043人(公立85万6320人、私立4万723人)の生徒が参加し、参加率は83.9%だった。全国高等学校の修学旅行実施校は3727校、実施率は76.1%だった。うち公立高等学校の修学旅行実施校数は2817校で実施率は79.2%、私立高等学校の修学旅行実施校数は910校で、実施率は67.9%だった[22]。 地元から比較的近い観光地への旅行が主流である。たとえば南関東ならば日光・那須・箱根・伊豆・新潟県・長野県などが多く、南東北や北関東、中部地方東部などからは東京や神奈川県(横浜・鎌倉・江ノ島)などに行く場合が多い。
修学旅行先の地域
小学校