修学旅行
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この後、翌1887年(明治20年)3月に同校は正式に修学旅行の実施期間を定め[4]、実際、当時の報道によれば、同年2月には鎌倉・駿州地方へ[8]、8?9月には長野・山梨・静岡・神奈川を縦断[9]、88年3月には再び房総へ[10]、同年7?8月には群馬・新潟・福島地方へ[11]と、継続的に実施された。ただし、すでに1887年末には「一泊以上の行軍は、夏冬両季休業中、及び春期試験の後に限り、これは学術研究旁々することとして、兵式体操の用具を携帯せしめず、常時臨時に於てするものは総て一泊がけ若くは一日往復と定めて、兵式教師の引率に任ず」[12]と改め、1888年以降は学術研究としての修学旅行と兵式体操としての行軍演習とが事実上分離された[13]

一方、女子生徒による修学旅行もまた、高等師範学校の女子師範学科(現・お茶の水女子大学)によって1887年の夏季休業中に千葉県へ向け実施されており、修学旅行とは明記されていないが、『教育報知』第79号(1887年8月)は、「高等師範学校女子部の遠足」という見出しで「避暑傍ら地理博物等実地研究のため上総鹿野山地方へ、去九日出発し凡そ二週日間の遠足」と報じている。女子生徒は兵式体操とは無縁であったことから、この遠足は専ら学術研究を目的とする文字通りの修学旅行であり、同校男子生徒のそれを先取りしていた。

1886年の尋常師範学校及び尋常中学校等の体操科への兵式体操の正式導入とともに[注釈 6]、1887年以降、長途遠足をモデルとした集団旅行も府県尋常師範学校を中心に急速に普及し[注釈 1]文部省もその師範教育における有益性を追認した[14]。文部省が尋常師範学校の行事としての修学旅行を法令上に明記したのは、1888年(明治21年)の「尋常師範学校設備準則」であり、末尾に列挙された諸支出項目に「修学旅行」を掲げ、「修学旅行ハ定期ノ仕業中ニ於テ一ヶ年六十日以内トシ可成生徒常食費以外ノ費用ヲ要セサルノ方法ニ依リテ之ヲ施行スヘシ」と経費上の実施基準(制約)を示した[注釈 7]。ちなみに、1883年段階で東京師範学校が生徒に支給した学資金は一ヶ月6円、そこから月々食料費として3.25円(一日当たり約10銭)を徴収した[15]。高等師範学校では1898年段階で被服費とは別に一日当たり14.5銭の割合で食費を月々支給、修学旅行時は食費の代わりに旅費が支給され[16]、府県の財政に左右される尋常師範学校に比べ恵まれていた。

1896年(明治29年)には、長崎県立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)が上海(当時は清国)への修学旅行を敢行しており、日本初の海外修学旅行とされている[17]

1890年代以降、修学旅行が中等教育の諸学校を中心に全国的に普及する一方、文部省普通学務局(澤柳政太郎局長)は時間と費用の空費となりかねない修学旅行の目的、旅行先の適否、適切な事前事後教授の方法について指針を示すべく、1900年(明治33年)に参考図書『独国ノ修学旅行』を編集発行した(12月12日普通学務局通牒にて中等学校への配布依頼)。ドイツの教育旅行を参考とした同書では、「修学旅行トハ全校生徒ガ一人以上ノ教師ノ指導ノ下ニ少クトモ二日(宿泊ヲナシテ)旅行シテ体育知育情育意育ニ等シク益セシメルコトヲイフ」と定義され、ドイツの教育学者クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンがシュネッフェンタールの学校で1784年から1803年まで数回実施したモデルが紹介された[18]

19世紀末?戦前期には、鉄道の普及と団体割引料金導入などのインフラ整備も進み、高等小学校にいたるまで修学旅行が学校行事として定着していった。1940年(昭和15年)6月の文部省による修学旅行制限の通牒[19]戦時体制に伴う1943年(昭和18年)以降の実質的禁止まで、戦前には、伊勢神宮橿原神宮厳島神社金刀比羅宮といった国家神道教育に通じる神社を目的地とする参宮旅行が盛んに行われた[20]。これらは敬神思想の啓蒙を目的とするもので、現在のような古美術観光も一部で行われてはいたものの[注釈 8]、1940年以前の修学旅行のガイドブックでは古美術観光を取り入れた事例は目立たず、一般的とは言えなかった[21]。また、旧制の高等商業学校では、「海外に雄飛する人材の育成」を標榜していたことから、朝鮮半島や満蒙地域など東アジアへの、いわゆる満鮮旅行(満韓旅行)を実施し、東亜同文書院のように旅行後学生に報告書の提出を求めるケースもあった。

太平洋戦争後は、1946年(昭和21年)に大阪市立東高等女学校(現・大阪市立東高等学校)が九州・阿蘇への修学旅行を再開したのが始まりとされる。本格的な再開は1950年代以降で、同時に古美術観光が積極的に取り入れられている。修学旅行関係者のための専門誌として発行された機関紙『修学旅行』(日本修学旅行協会発行)では、古美術観光を修学旅行に組み込むことが奨励され、教師向けに各社寺が持つ所蔵古美術品の解説、写真を用いた事前指導、現地での実地指導例、古美術見学の教育理念などが取り上げられている。この転換の理由は、1950年代半ばの社寺観光ブームや、戦前の参宮旅行のような国家主義教育否定の方針、交通の利便性や団体宿泊の受入れ環境などを考えあわせた場合、旅行先は必然的に京都・奈良中心にならざるを得なかったためと考えられる[20]。また、1970?1980年頃までは、現在のように交通インフラが多様化していなかったため移動手段には専ら鉄道が利用され、あらかじめ専用列車のダイヤを決めて数校の修学旅行客輸送を一括して請け負う修学旅行者専用列車の設定も見られた(詳しくは修学旅行列車を参照)。その後、私立高校では1970年代後半以降、国立高校・公立高校においても1990年代後半以降には航空機を利用するケースも増え、特に私立高校では1980年代後半以降、海外旅行を選択する学校が増加した。


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