信頼できない語り手
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シャーロック・ホームズシリーズ』の主な語り手であるジョン・H・ワトスンは誠実な人物として描かれるが、事件の描写についての正確性をシャーロック・ホームズから疑問視される事がある[注 4]

ジーン・ウルフの『ケルベロス第五の首』では、異星人というSFの設定を用いて、正体を隠そうとする語り手を登場させている。
精神に問題のある語り手

知的障害や精神疾患のある語り手は、健常者とは違う表現をするため、結果的に「信頼できない語り手」になることがある。

ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』における複数の語り手の中には、知的障害を抱える人物が登場する。

映画メメント』では、語り手は前向性健忘のため記憶を10分以上保てなくなっており、過去の出来事や自分の動機が何だったか、信頼できる方法で語ることが困難な状態である。またカットバックが多用されているため、何が真実なのか不明のままになっている。小説版では章の時系列が曖昧な構成になっている。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』では、本人の自覚しない理由で、精神病院に入院している人物が主人公となっている。「自分が犯したかもしれない犯罪」を解決しようと努力する話であるが、「その物語自体が、発作による偽の記憶であるかもしれない」ことが示唆されている。

江戸川乱歩の『孤島の鬼』の中盤に登場する日記では、生まれた直後から土蔵に閉じ込められて育てられた少女が書き手であり、一般知識の大きな欠落と別の異常環境要因が歪な記述となって現れており、「どうしてあの人には顔がひとつしかないの」といった文が登場する。

H・P・ラヴクラフトによる『クトゥルフ神話』では、恐怖に晒されて正気を失った一人称の語り手を起用することが多く、これらの語り手を信頼できなくすることで謎を謎のまま残している。また語り手が自分の見た出来事を超自然的に解釈することを堅く拒み通すものの、最後に恐ろしいものに直面したことを認めざるを得なくなる、という手法をしばしば使っている[注 5]

映画『ジョーカー』では、主人公のアーサー・フレックの視点で物語が進むが、途中で、アーサーが体験したはずの出来事の一部が妄想であったことが明らかになる。また、物語終盤は精神病院に収容されたアーサーの場面となり、ますます事実と妄想の境界線が曖昧になったまま終わる。
子供の語り手

子供が語り手となる物語では、経験不足や判断力不足のため、「信頼できない語り手」になることがある。

1884年の『ハックルベリー・フィンの冒険』では、主人公ハックは未熟なためもあり、登場する人物達に対する判断は、実際以上に寛大なものになっている。ハックが作者の「マーク・トウェインさん」をとがめる場面もあり、作中人物と現実の作者が交錯している[注 6]。逆に、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドは、周りの人物達を酷評しがちである。
記憶のあいまいな語り手

精神疾患というほどでもないが、事故直後のショックや物忘れ、思い出したくない過去があるなど、あいまいな記憶を持つ人物が語り手になっている場合も、信頼できない語り手となることがある。

イギリスの小説家カズオ・イシグロは『日の名残り』などで、自分の人生や価値観を危うくするような過去の記憶から逃げている等、記憶を操作していたり記憶があいまいだったりする一人称の語り手を登場させ、最後には語り手が記憶と事実のずれに直面せざるを得なくなるような物語を多く書いている。

志駕晃の小説『ちょっと一杯のはずだったのに』では、主人公は、著しい酩酊のために、酩酊時の記憶が当人自身にも残っておらず殺人の有力容疑者となってしまう。しかも密室であったために、酩酊状態で密室を構築したのではないか、とまで疑われるが、当人は確信をもって否認できず、読者も、主人公が犯人かどうかわからないまま進行する。

吉村達也の小説『黒川温泉殺人事件』では、主人公は、事故に巻き込まれ頭部に打撲を負う。それ以後、記憶がまれに欠落するようになる。そして、「殺人を犯したかもしれない」と思い始め、それを告白して、周囲の混乱を招く。
複数の信頼できない語り手

複数いる語り手たちが私利私欲、個人的な偏見、恣意的な記憶のために全員信頼できないという作品もある。

映画『羅生門』や、その原作である芥川龍之介の『藪の中』では、ある武士の死について複数の人物が検非違使に証言をするが、各人の語る証言は詳細が異なり、それぞれが矛盾する内容になっている。『藪の中』が下敷きにしたアンブローズ・ビアスの『月光の道』もほぼ同様である。『羅生門』は海外でも高く評価され、各証人の発言が矛盾する事態を指す「羅生門効果」という用語も生まれた。

男女間の立場についての食い違いはモチーフとして広く取り上げられ、『ヒー・セッド シー・セッド 彼の言い分 彼女の言い分』や『グリース』などでは、男性側と女性側とで自分たちの関係についての言い分が完全に食い違う。またさだまさしの歌う『検察側の証人』では、ある破局に対し全く異なる主張をする3人の語り手が、1・2・3番を歌う形を採っている。

湊かなえの小説『告白』では、登場人物達は作中で行われた事象を全て把握しているわけではなく、殺人事件の実情を被害者の母親である主人公は「主犯はともかく、直接手を下したもう一人の犯人には殺意はなかった」と思っていたのに対し、手を下した犯人は「殺意を持って殺した」としているといった錯誤がいくつもある。
三人称の信頼できない語り手

一人称の登場人物ではなく、ある登場人物に焦点を当てる一元視点の三人称小説(異質物語世界的)の語り手が、視点の限界から一種の信頼できない語り手と似た効果を生むとシュタンツェルは指摘する。また、物語を見回す全知の三人称の語り手も、重要な出来事を省略することによって読者や観客を騙す場合がある。


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