信西
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^ 古澤直人によれば、信西は息子が多く、そのいずれも急激な昇進を遂げたことで彼らと競合を迫られて超越される危機感を抱いた院近臣や天皇側近がやがて父親の信西に対して反発を強めたとする[3]。
^ 『平治物語』によると、後白河から信頼の大将就任を諮問された信西は先例を挙げて諫止するとともに、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を題材とした『長恨歌』の絵巻を作成し、信頼を寵臣でありながら反乱を起こした安禄山になぞらえて、その危険性を悟らせようとした。この絵巻は『玉葉』建久2年11月5日(1191年11月23日)条に記されており、実在が確認できる。絵巻を見た九条兼実は「この図、君の心を悟らせんがため、かねて信頼の乱を察して画き彰はす所なり。当時の規模、後代の美談なる者なり。末代の才子、誰か信西に比せんや。褒むべく、感ずべきのみ」と最大級の賛辞を呈している。
^ ただし、河内祥輔は信西襲撃の際、信西一族以外の院近臣のほとんどが信頼方についていることや信西一族への処分が信頼処刑後もすぐに解除されなかったことから、後白河上皇が「仏と仏との評定」に基づいて二条天皇親政への移行を進める信西を排除するために信頼らに信西を討たせたと解する[4]。
^ 『平治物語絵巻』信西巻では、獄門の棟木にかけられているが、平治物語一類本には「検非違使、大炊御門河原にて信西が首をうけ取、大路を渡、東の獄門のまゑなる樗(オウチ、楝とも書く)の木にぞかけてける」とある。
^ 信西の息子達は流刑の宣告を受けた。流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。その後、二条親政派の経宗と惟方が失脚すると、帰京を許されている。
出典^ 角田文衛『平安の春』講談社学術文庫、平成11年(1999年)。
^ 山田邦和「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』所収 思文閣出版、2009年)
^ 古澤直人「平治の乱における藤原信頼の謀叛」『経済志林』八〇巻四号(2013年)のち古澤『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』吉川弘文館、2019年、ISBN 978-4-642-02953-7
^ 河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002年)P110-136
^ 『平治物語』諸本
^ “阿波内侍 とは - コトバンク”. 2012年9月5日閲覧。朝日日本歴史人物事典の解説より。
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平治物語
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