信濃国
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科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる[8]。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する[9]。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる[6]。現在の伊那市手良には「大百済毛・小百済毛」という地域があるが、この地名は百済からの渡来人によって開発されたという伝承がある。また、手良という地名も、『新撰姓氏録』に見える「弖良公」に由来するという[10]

現在の長野市篠ノ井にある長谷寺やその境内にある長谷神社は、小長谷部が創建したと考えられている。小長谷部は、5世紀末期から6世紀初期に存在した可能性がある武烈天皇部民とされる。『日本書紀』によれは、武烈天皇3年には、大伴室屋が信濃国の男丁(よぼろ)を集めて城を作るように武烈天皇から詔を受けているが、この「信濃国の男丁」は小長谷部のことであると考えられている。また、小長谷部の人物として名前が残っているのは、天平勝宝4年(752年)に正倉院に奉納された白布に記された「小長谷部尼麻呂」がいる[11]。さらに、姨捨山(おばすて)も小長谷部(おはつせべ)に由来するとされる。6世紀後半には欽明天皇の時代に科野国造後裔の金刺舎人直敏達天皇の時代に同じく科野国造後裔の他田舎人直が成立し、後世に諏訪大社下社・上社の大祝家や信濃国内の複数の郡司を務めた。その一方で、安曇郡司は安曇部氏が務めた。

信濃国に存在した名代部曲は、史料に見えるものは刑部小長谷部金刺舎人他田舎人生王部物部尾張部神人部である。その他には屋代古墳群出土の木簡に見える金刺部他田部、若帯部(舒明皇極の名代)、穂積部、守部、酒人部、宍部、宍人部三家人部石田部戸田部や、それ以外の木簡に見える私部天平20年(748年)4月の写書所解に更級郡村神郷戸主の私部知麻呂や同戸口の私部乙麻呂の名が見える)、倉橋部(平城宮若犬養門地区から出土した木簡に見える筑摩郡山家郷の椋橋部逆や『続日本紀神護景雲2年(768年)5月条に水内郡の人として見える倉橋部広人がいる)、丸子仁寿3年(853年)の願経に佐久郡の丸子真智成が見える)、久米舎人(『類聚国史』巻87の延暦14年4月条に小県郡人久米舎人望足が見え、『続日本紀天平19年(747年)5月条に叙位の記事が見える、高句麗系のウジ名を持つ前部宝公の妻・久米舎人妹女は、小県郡あるいは更級郡に居住していたと考えられている)、大伴、安曇部建部、爪工部、辛犬甘がいる[12]允恭天皇期の刑部、武烈天皇期の小長谷部、欽明天皇期の金刺舎人などの名代は、安曇郡高井郡を除く信濃国全ての郡に分布している[2]。信濃国におけるウジ名や部名の特徴として、大宝元年(701年)の『御野国戸籍』など、東山道の隣国である美濃国に分布するものが見えることが挙げられる。特に、若帯部、守部、穂積部などは、美濃国以外にはあまり例が知られていない。以上の部の設定は、古くても5世紀末、その多くは6世紀前半以降に順次設定されていったと考えられる[12]

飛鳥時代中期の皇極天皇3年(644年)、本多善光により開基された善光寺は、諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。大化元年(645年)には、大化の改新によって令制国が発足し、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。信濃国は当初、伊那(伊奈)評諏方(諏訪)評束間(筑摩)評安曇(阿曇)評水内評高井評小懸(小県)評佐久評・科野評(後に更級埴科に分立)などが成立していたと考えられ[13]、現在の木曽地方を欠く大部分を領域とした。これらの評は、大宝律令の成立後、に改組された。越国に大化3年(647年)に渟足柵が、大化4年(648年)に磐舟柵が作られて科野から柵戸が派遣された。


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