信濃の国
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全般に長野県域の地理・歴史・文化を賞揚するものであり、御嶽山乗鞍岳木曽駒ヶ岳浅間山犀川千曲川木曽川天竜川木曽谷諏訪湖佐久間象山と、長野県各地の事物や長野県に縁を持つ人物が列挙されている。但し、作詞者の浅井は中信地方出身の旧松本藩士族であるためか、取り挙げられている事物や人物には偏りが見られる。

その内容から、「複数の盆地の寄せ集め」「連邦」と揶揄される、長野県の一体性と結び付きを高める為の精神的支柱として使用されてきた。これに関連して、「信濃の国」には直接登場しない下高井郡では、独自に郡歌を作っている。

なお、5番において「仁科五郎盛信」が「仁科五郎信盛」として歌われている。仁科盛信は一般に「盛信」として知られているが、近年には「信盛」と記された文書が残されていることから、改名していた可能性が指摘されている[1]
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歴史


作詞:浅井洌(左、1849年 - 1938年)
作曲:北村季晴(右、1872年 - 1930年)

「信濃の国」はもともと郷土教育を目的として作られた歌であり、その歴史は明治時代初期までさかのぼる。現在の長野県域にほぼ相当する信濃国内の各地域は、山地・気候・交通網によって随所で細分されており、江戸時代にも多くの天領に分かれており、明治時代に至っても尚、旧藩や旧天領に住民の帰属意識が残存していたため[2]、県域全体の一体感は希薄であった。

1871年(明治4年)の廃藩置県とその後の府県再編により、現在の長野県は長野に県庁を置く長野県と、松本に県庁を置く筑摩県(現在は岐阜県に属する飛騨国の領域も含んだ)に分かれていた。しかし、1876年(明治9年)に松本の筑摩県庁舎が火災で焼失したことを機に、同年8月20日、筑摩県が廃止され同県が管轄していた信濃国の部分が長野県に編入された。その結果、信濃国全域が長野県の管轄下に入ったが、以来「南北戦争」「南北格差」とまで呼ばれる、長野市と松本市との激しい地域対立が続いており、県民意識の一体性を高めることが大きな課題となっている。

「信濃の国」は本来、同時期に作られて流行していた「鉄道唱歌」などと同様に、県内の地理教育の教材として作られたものである。当時、同様の地理唱歌は他の県や地域でも多く作られており、長野県だけに特異な事例ではない[3]。しかし、上記のような事情を背景に、県内各地の事象をほぼ万遍なく歌いこみ、本来は都市名である「長野」ではなく県内の大方の地域が該当する「信濃」という旧国名で県域を包括したことで、本来の地理唱歌という枠を超えて、地域全体の共同体意識を喚起する歌として歌い継がれてきた。時代はまさに日清戦争日露戦争の狭間の時期にあり、国家主義地域ナショナリズムを鼓舞する目的も存在した[2][4]

「信濃の国」の最初のバージョンは、1898年(明治31年)10月に信濃教育会が組織した小学校唱歌教授細目取調委員会の委嘱により、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭であった浅井が作詞し、同僚の依田弁之助が作曲して創作したものである。この曲は「信濃教育雑誌」(1899年(明治32年)6月発行)に掲載されたが、あまり歌われることはなかった。翌1900年(明治33年)、同師範学校女子部生徒が、依田の後任であった北村に同年10月の運動会の遊戯用の曲の作曲を依頼した。このとき新たに作曲されたバージョンが現在歌われているものである。師範学校から巣立った教員たちが長野県内各地の学校で教え伝えたことから、この曲は戦前から長野県内に普く定着した。

1947年(昭和22年)には日本国憲法公布を記念して新しい「長野県民歌」(作詞・北村隆男、作曲・前田孝)が公募を経て制定され、県内各地で発表会を開催したり歌詞と楽譜を配布するなど普及が図られたが県民の間では戦前から歌われて来た「信濃の国」が余りにも浸透していたため、この「県民歌」は遂に受容されること無く忘れ去られて行った[5]

「信濃の国」にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。1948年(昭和23年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信南信地方(合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、傍聴に詰めかけた、分割に反対する北信地方東信地方(合併前の長野県域)の住民達が突如として「信濃の国」の大合唱を行ない、分割を求める県会議員たちの意思を潰して分割を撤回させたと言われている[6][7][8]。しかし、当時の県職員は、投票前に歌が歌われていた記憶が無く、また、仮に県議会で分割案が可決されたとしても政府や国会は分県を認めない方針であったとしている[7]長野県議会によれば、1948年3月19日の本会議採決において、分県反対派議員が牛歩戦術を行った上に、傍聴人が「信濃の国」を大合唱するなど議事が混乱したことで、この日の本会議が流会になったとされる。しかし、その後もなお分県賛成派は意見書の採決を諦めず、4月1日の本会議で改めて分割案の採決が行われたが、反対派であった県議会議長が欠席したため、賛成派の副議長が代理として議長席に座ることになった。賛成派の副議長が議長代理となったために賛成派による過半数による可決が不可能になったが、可否同数だと議長代理による裁決で可決できる可能性があったため、反対派議員の一部があえて白票を投じるという機転を効かせたことで最終的には「賛成:29票 反対:26票 白票:3票」となり、可決に必要な過半数の票を得られず、なおかつ可否同数も防げたため意見書は廃案となった[9]
音源

「信濃の国(創唱盤)」
内田栄一シングル
A面信濃の国
B面信州男児
リリース1931年12月
規格30cmSP盤
録音1931年
ジャンル地理唱歌
レーベル日本コロムビア(26591)
作詞・作曲(A面)作詞:浅井洌、作曲:北村季晴
(B面)作詞:田中常憲、作曲:山下信太郎

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「信濃の国 長野県歌 =歌唱編=」
立川澄人/東京混声合唱団
ビクター少年少女合唱団 の シングル
初出アルバム『決定盤 信濃の民謡[10]
A面信濃の国【斉唱】
(各盤共通)
B面信濃の国【合唱】
(17cmEP盤)
信濃の国【カラオケ
(8cmCD/12cmCD)
リリース1969年
(発売日不詳・17cmEP盤)
1997年5月21日
(8cmCD)
2014年8月20日
(12cmCD)
規格17cmEP盤
8cmCD
12cmCD
録音1969年
ジャンル県歌
時間(A面)5分50秒
レーベルVICTOR/
日本ビクター
(17cmEP盤)
Victor/
ビクターエンタテインメント
(8cmCD/12cmCD)
作詞・作曲作詞:浅井洌、作曲:北村季晴、編曲:小山清茂

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以下は主なレコード会社から発売された音源である。ここで挙げた以外にも、高等学校の校歌や青年団歌などの非売品レコードにカップリングで歌唱されたものを含めて膨大な数の音源が存在するとみられる。

歌詞・旋律のいずれも著作権の保護期間を満了しているため、アレンジも盛んに行われている(#普及度を参照)。
コロムビア盤

初めて市販されたのは1931年(昭和6年)12月に日本コロムビアから発売された内田栄一の歌唱によるSPレコード規格品番:26591)で、収録時間の都合により全6番中4番までに短縮されていた。B面収録曲は「信州男児」(作詞・田中常憲、作曲・山下信太郎)。

1949年(昭和24年)には小山清茂の編曲で浅野千鶴子がソプラノ、鷲崎良三がテナー、三枝喜美子がアルト、尾籠晴夫がバスをそれぞれ担当する合唱でA面/B面にそれぞれ曲の前・後半を収録したSP盤(B313)が製造され[11]、これが全6番を完全に収録した初の音源となった。


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