保護貿易主義
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保護貿易(ほごぼうえき、: protective trade)とは、国内取引と国外取引の間に関税などの交易障壁を設けた状態における貿易のこと。

対義語は自由貿易
概要

国家が自由貿易による弊害を防止し、自国の産業を育てるためにとる貿易政策を「保護貿易」という[1]。保護貿易は関税で輸入量を制御する場合と、政府や業界団体が輸入を独占したり様々な国内基準を設け、貿易数量を規制する(非関税障壁)場合がある[1]。国内規格を設けて輸入を制限する[2]、自国製品に補助金をつけて輸出を促進するという政策もある[3]

関税の決定権は通常、中央政府にあるが中央政府の体制次第では国内産業の主張を反映せざるを得ない場合がある。競争力の弱い国内産業の場合、競合する輸入品の制限を求めることが多い。このときに、中央政府は、当該産業との競合品に関して高率の関税をかけるなどして輸入を制限する。これによって、当該産業は保護され一定の市場占有率と利益を確保できる。また、中央政府が特定の産業を国内で育成する目的を持って主体的に関税を設ける場合もある。これらの意図で形成される貿易体制が保護貿易である。

一般に、関税は当該商品の購入者に対する間接的課税となる。
保護主義の主張

貿易が拡大することによって、不利益をこうむる人々が政治的に大きな力を結束させ、貿易に制約を加えることを保護主義と呼ぶ[4]

外国からの輸入の拡大は国内生産者の利益を損ねる[5]

外国からの輸入の増加によって、国内の製品が売れなくなり、雇用が悪化する[5]

外国から安価な商品の大量流入によって国内の生産の縮小→国内企業の国外移転→国内産業の空洞化が生じる[5]

先進国との競争激化による国内企業の淘汰を防ぐため、一時的な産業の保護を必要とする(幼稚産業保護[5]

先端技術産業の育成のため、国内産業を保護する[5]

自由貿易論者の主張については、自由貿易#概要を参照。
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出典検索?: "保護貿易" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年1月)

保護貿易はいくつかの特性を持っている。
ゲーム理論からのアプローチ
自由貿易の体制の中、一カ国が保護貿易体制を敷いたとする。この場合、保護貿易国では貿易収支が改善される。逆に自由貿易国は貿易収支が悪化するため、保護貿易への転換を選択する。このため、保護貿易が広がり全体的な効率性が低下する(ナッシュ均衡)(合成の誤謬)。
変動相場制からのアプローチ
資本移動が無い、あるいは一定の場合を想定する。このとき、為替相場変動の要因は貿易額変動のみになる。特定の産業を保護するために関税をかけると、保護された産業の市場で外国勢のシェアが落ち輸入額が減少する。輸入額の減少は自国通貨高をもたらすために、保護されていない産業は競合品の輸入が拡大しシェアを落とす。また、自国通貨高により輸出産業が打撃をこうむる。このように、ある産業が保護されると、保護されていない産業は損害をこうむる。
歴史「貿易史」も参照
イギリスの保護貿易政策

17世紀のイギリスでは、重商主義がすすめられて、イギリスの繁栄の礎を築いた。イギリスは1651年から航海条例を発布する。目的はイングランドの貿易をイングランド籍の船にかぎることであり、これによりオランダ船を貿易において排除した。1690年には産業の保護のため、毛織物の輸入に関税をかけて、原毛の輸出を禁止した。この時代には連帯保護制度があり、製造業を保護する一方で、小麦をはじめとする穀物に輸入制限を設けたり、輸出奨励金の拠出を行った。穀物の輸出奨励金によって、イギリスは1770年代まで穀物輸出国となった。民間では名誉革命によって営業の自由が保証されたが、同時代の大陸ヨーロッパは国王特権による独占や特許がまだ力を持っており、アダム・スミスが『国富論』を書いた時代にも、フランスはコルベール主義の政策が続いていた。コルベールは産業育成と輸出奨励策をとり、輸入代替政策をはかった[6]
産業革命の進展

産業革命が進展した時代には、イギリスではインドの綿織物キャラコの輸入や使用を禁止して、インド産綿織物と国内毛織物との競争を防いだ。やがて毛織物から綿織物へと保護育成を移して、綿織物の輸出が増加を続けて、18世紀末から19世紀初頭にかけて輸出額が2倍以上に上昇した。一方で人口は1771年から1871年のあいだに900万人から2600万人となり、穀物輸出国から輸入国になる。ナポレオン戦争は貿易に大きな影響を与えて、ナポレオンがイギリスとの貿易を禁じた大陸封鎖令で小麦の価格はさらに上昇した。イギリスでは穀物の保護貿易による賃金高止まりへの批判から国内で対立が起き、反穀物法同盟などの運動もあって1846年に穀物法は廃止された。イギリスでは自由貿易がすすむが、イギリスに続いて工業化をすすめる大陸ヨーロッパ諸国やアメリカでは、保護貿易が継続されてゆく[7]
工業化と保護主義

ドイツでは1834年にドイツ関税同盟が作られて、プロイセンを中心としてドイツの統一がすすんだ。イギリスの自由貿易は、ドイツを農業国に戻すための政策として警戒されて、ドイツの保護主義の根拠となった。フリードリヒ・リストが保護主義による工業化を主張したのも、この時代である[8]

アメリカ合衆国の初期の貿易政策は、保護主義にもとづいていた。合衆国の初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは重商主義やリストの思想を参考として「製造業に関する報告書」を書き、アメリカ学派と呼ばれる経済学派を形成する。アメリカ学派の政策はアメリカ・システムとも呼ばれて、下院議員のヘンリー・クレイを中心に推進された[9]1816年にはほとんどすべての工業製品に35%の関税が課され、1846年まで高関税が維持された。1846年以降は関税が引き下げられ、10~20%程度の穏当なものになった[10]


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