戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪頼継の家老として「保科弾正」(あるいは筑前守、保科正則
)の名が登場する。本来は北信濃の霞台城を本拠とする保科氏が南信濃に移った時期や理由などについては、長享年間に村上顕国との抗争に敗れて高遠に遷移したと見る向きもあるが、今日も真相は不明である。ただし、鎌倉時代以来諏訪神党の一つに数えられたことから、諏訪氏と密接な関係が築かれていたと考えられ、正則の跡を継いだ保科正俊は[3]高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。天文21年(1552年)に旧主の高遠氏が武田氏の信濃侵攻により滅亡すると、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となる。正俊は軍役120騎を務める高遠城将として数々の戦いで軍功を挙げ(高坂逃げ弾正、真田攻め弾正と保科槍弾正の武田軍三弾正と謳われた)、跡を継いだ嫡男の正直も高遠城将として、武田氏滅亡時の高遠城主仁科盛信と共に奮戦している。
正直は高遠城落城の際に落ち延び、本能寺の変で信濃の織田勢力が瓦解した後、後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功する。そして後北条氏と徳川氏が信濃の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与して高遠城主としての地位を安堵される。
正直の子正光は小牧・長久手の戦い・小田原征伐に出陣、徳川氏の関東入府に際して下総国多胡で1万石を与えられ、大名に列した。関ヶ原の戦いの後には旧領に戻って高遠城主として2万5千石を領した。さらに大坂の陣での戦功により3万石に加増される。 正光の養嗣子として家督を相続した保科正之は、2代将軍徳川秀忠の庶子で、寛永13年(1636年)に17万石加増されて出羽国山形藩主(20万石)となり[4]、さらに寛永20年(1643年)に3万石加増されて陸奥国会津藩(23万石)に移封され[4]、元禄元年(1696年)に正容の代に松平姓の使用が許された[5]。以降、同藩は親藩大名として幕末まで存続したが、明治元年(1868年)に容保の代に王師に反逆して改易となった[5]。しかしその後明治2年に容大に陸奥国斗南藩3万石が与えられたことで家名再興を許され華族に列し[5]、版籍奉還後の明治3年に斗南藩知事に転じたのを経て、明治4年の廃藩置県を迎えた[5]。 明治17年(1884年)に華族令施行で華族が五爵制になると容大は旧小藩知事[注釈 1]として子爵家に列した[7]。2代子爵保男は少将まで昇進した海軍軍人で予備役入り後には貴族院の子爵議員に当選して務めた[8]。 同松平子爵家の邸宅は昭和前期に東京市小石川区第六天町にあった[8]。 一方、正之の入嗣により世子の座を廃された正貞(正光の実弟)は、別家を興して上総国飯野藩主(1万7000石)に封じられた。延宝5年(1677年)の加増で都合2万石となった。以降明治維新まで譜代大名として存続し、最後の藩主正益は明治2年に版籍奉還で飯野藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[5]。 明治17年(1884年)に華族が五爵制になると正益は旧小藩知事[注釈 2]として子爵家に列した[9]。2代子爵保科正昭は帝室林野局や朝鮮総督府に官僚として勤務した後、貴族院の子爵議員に当選して務め、院内会派研究会に所属した[10]。 同保科子爵家の邸宅は昭和前期に東京市牛込区市谷中之町にあった[10]。 正貞の外孫で当初正貞の養子となっていた正英も、分家して2500石の旗本となる。同家より山田奉行の保科正純や幕府陸軍歩兵頭並やパリ万国博覧会使節団を歴任し、明治以降には陸軍に入隊して歩兵大佐まで昇進した保科正敬(俊太郎)が出ている。 井上家季
松平氏一族化した宗家
飯野藩主家→華族の子爵家の保科氏
旗本→士族の保科氏
系譜
実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
常田光平
桑洞光長
清長
保科忠長1
長直2井上経長井上光朝井上光清
長時3
光利4
正知5
正利6正満
正則7
正俊8正保
正直9内藤昌月正勝1[11]正賢
正光10正貞正重北条氏重女 小出吉英正近2正辰