保科正之
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寛永6年(1629年)6月、正之は兄の3代将軍徳川家光と初対面、また次兄徳川忠長とも対面しており、忠長からは大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたとしている(『会津松平家譜』)。

寛永8年(1631年)10月、養父・正光が死去した[7]。同年11月、幕府より幸松に「月のかわらぬうちに出府せよ」と命令が下り、重臣5名と出府、土井利勝井上正就同席の上、「幸松儀、肥後守信州高遠藩3万石相続仰せつけられる」と上意があり、秀忠の命で保科肥後守正之と名を改め、21歳で世に出た。正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となる[8]

同月27日、元服し、翌28日、従五位下に叙され、肥後守と称した[7]

正光は、前述の左源太とは別に、異母弟・正貞を養子分・嗣子にしていた[7]。正之を養嗣子とするにあたって、正貞を義絶廃嫡している[7]
会津藩主保科正之の墓(2002年4月撮影)

秀忠の死後、3代将軍・家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。この頃、幕閣には土井利勝酒井忠勝松平信綱堀田正盛ら人材は揃っていたが、身内の相談役が欲しかったのか、家光は正式に弟を披露することはなかったが、何かの折に別格の扱いをして将軍家の弟と世に知らしめた。寛永9年(1632年)1月24日、秀忠が亡くなるが、家光は正之に「御遺物」として銀500枚を授ける。3月、芝増上寺の廟建立の責任者に任命、4月には家康の17回忌のための日光東照宮へ参るのに同行させている。12月には、それまでの従五位下から従四位下に叙せられる。従四位下は10万石以上の大名に与えられるもので、いまだ3万石の大名の正之には破格の待遇だった。その後も、江戸城桜田門外に上屋敷を与え、江戸城に招いて手ずから茶を点てて振る舞った。明正天皇拝謁のため上洛の際には、供奉(ぐぶ)の先発隊に指名した。正之を肉親として扱い、政務へも参加させるという家光の意思の表明だった。

寛永13年(1636年)7月、出羽国山形藩20万石を拝領した[9]。この時、高遠の領民の間で「今の高遠で立てられようか、早く最上の肥後様へ」と歌われる。「どうして今の高遠でやって行けよう、早く正之様の最上(山形)藩へ移りたい」という意味で、正之の高遠での善政が忍ばれる。実際に3000人に上る高遠の領民が逃散し、正之の後を追って山形に行ってしまう。

寛永14年(1637年)、家光の命で、保科家相伝の品々を正貞に譲った[9]。これは、保科家の正統は正貞に譲り、正之は徳川一門の大名とすることを意味した[9]

同年に勃発した島原の乱に際しては、九州諸侯の統率が取れず苦戦する幕府軍の増援として派遣が検討されたが、結局は出征することはなかった。

寛永10年(1633年村山郡白岩領主酒井忠重に対して領民が江戸で出訴し、寛永15年(1638年)忠重は改易となる。白岩領は幕府直轄領として代官支配となったが、不満を持った領民が同年に再び一揆を起し、隣領の正之に出訴した(白岩一揆)。正之は山形に出頭した一揆関係者を全て捕縛し処刑した。この一件の始末は、高遠領民らと比べ情け容赦がないと評されるが、これは島原の乱直後に武家諸法度が改定され、一揆には情勢に合わせて越境鎮圧する規定があったことも大きく影響している[10]

寛永20年(1643年)、陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる。以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。

慶安4年(1651年)、家光の見舞いに来た正之に対して、家光は萌黄色の直垂と鳥帽子を与え「今後保科家は代々萌黄色の着用を許す」と告げる。家光はこの色を大いに好み、大事な儀式に際して着用していたので、他の大名は遠慮して萌黄色は用いて着ていなかった。正之にその衣装を与えることで、将軍と同格であることを周りに知らしめた。家光は死の床にある時、有力大名を呼びだし、大老・酒井忠勝が将軍最後の言葉として「新しい将軍の政を身を挺して助けるように」と申し渡したが、その際に家光は寝床に横になったままであった。これに対して正之を枕頭に呼び寄せた際だけ、家光は堀田正盛に抱きかかえられながら起き上がり、自らの口で「肥後よ宗家を頼みおく(肥後守(=正之)よ、我が息子(=家綱)を頼むぞ)」と遺言した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を特に固く守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍を中心とする官軍と戦った。

寛文9年(1669年)4月27日、嫡男の正経に家督を譲り、隠居した。

寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去した。享年63(満61歳没)。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前の寛文6年(1666年)に神仏習合を排斥して領内の寺社を整理していた。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。

正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義からこれを固辞し、生涯保科姓を通した。松平姓と葵の紋を使用し、親藩に列されるのは、3代・正容になってからであった。
経歴

※日付=旧暦

1613年慶長 18年)3月2日、見性院の下で養育される。

1617年元和3年)11月14日、信濃国高遠藩主保科正光のもとに移る。

1629年寛永 6年)9月、兄の駿河府中城主、徳川忠長と初対面。

1631年(寛永8年)11月12日、高遠藩主として襲封。11月27日、諱を正之と名乗る。11月28日、従五位下・肥後守に叙任。

1632年(寛永9年)12月28日、従四位下に昇叙し、肥後守は兼任留任。

1634年(寛永11年)7月16日、兄将軍徳川家光に供奉して上洛し、侍従に任官。肥後守は兼任留任。

1636年(寛永13年)7月21日、出羽国山形20万石として移封。

1643年(寛永20年)7月4日、陸奥国会津若松23万石として移封。その他、会津南山5.5万石の幕領を預かる。

1645年正保 2年)4月21日、左近衛権少将に転任。肥後守は兼任留任。7月14日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将及び肥後守は留任。

1651年慶安 4年)4月20日、家光最期に際し、後継将軍家綱の補佐を厳命される。

1653年承応 2年)10月13日、従三位・左近衛権中将に昇叙転任。ただし、従三位昇叙は固辞。以後、会津中将の称を生じる。12月13日、正四位下に昇叙し、左近衛権中将および肥後守は留任。

1668年寛文 8年)4月11日、会津家訓十五箇条を制定。

1669年(寛文9年)4月27日、致仕。

1672年(寛文12年)12月18日、卒去。

1864年元治元年)3月4日、下記のような宣命により、従三位の贈位(子孫松平容保が参議任官を固辞し、代わりに先祖正之に従三位贈位を朝廷に願い許される)故保科正之贈従三位宣命(土津霊神社文書)天皇我詔良萬止、故正四位下行左近衞權中將源朝臣正之爾詔倍止聞食止宣布、往昔将家乃輔翼止成利?、不懈須不愆須、國家乃善政乎遂計行比、其身者遠久罷利去利奴禮止、其名者今爾彌高志、如此餘勲乎續岐繼計爾因?、苗裔乃世爾及比、守護乃職掌乎毛至忠爾至誠爾奉仕禮留状乃雄雄志岐乎慈給比、今既爾容保爾參議乃冠乎授給牟止所念行爾、曩祖賀遺志爾基計留乎以?、譲利申岐、古典爾毛云留本根不揺登岐者、枝葉茂栄登者汝乃事爾有倍岐奈利、故是以昔日志毛榮級乎上給比志爾、固久不受志乎歎給比惜給比?、今更爾從三位乃位爾贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣(訓読文) 天皇(すめら)が詔(おほみこと)らまと、故正四位下行左近衛権中将源朝臣正之に詔(の)りたまへと勅命(おほみこと)を聞食(きこしめ)さへと宣(の)りたまふ、往昔(いにしへ)将家(徳川将軍家)の輔翼と成りて懈(おこた)らず、愆(たが)はず国家(くにいへ)の善政(よきまつりごと)を遂げ行ひ、其の身は遠く罷(まか)り去りぬれど、其の名は今に弥高(いやだか)し、此(かくの)如く余す勲(いさをし)を続(つ)ぎ継(つ)げるに因(よ)りて、苗裔(べうえい)の世に及び、守護の職掌(つとめ)をも至忠(しちゅう)に至誠(しせい)に仕へ奉(まつ)れる状(さま)の雄雄(をを)しきを慈しみ給ひて、今既に容保に参議の冠(かがふり)を授け給はむと所念行(おもほしめす)に、曩祖(なうそ)が遺(のこ)しに基(もとづ)けるを以(も)て譲り申(まを)しき、古き典(ふみ)にも云(い)はれる本根(もとつね)揺るがざるときは、枝葉(えだのは)も栄ゆとは、汝(いまし)の事に有るべきなり、故(かれ)是(ここ)以(も)て、昔日しも栄級を上(あ)げ給ひしに、固く受けざりしを歎き給ひ惜しみ給ひて、今更に従三位の位を贈り給ふ、天皇(すめら)が勅命(おほみこと)を遠(はるか)に聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、元治元年(1864年)3月4日※参考文献「東京大学史料編纂所データベース」、「会津藩家世実紀」吉川弘文館、「内閣文庫藏 諸侯年表」東京堂出版


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