ジョン・グレイ[要曖昧さ回避]はフランス革命、社会主義革命、毛沢東体制はユートピアを想定し、善悪二元論的な千年王国主義にもとづいているとし、従来の保守主義はこうしたユートピア思想に批判的であったが(寛容、多元論)、近年の米国新保守主義がユートピアを追求するようになったことを批判した[7]。
イギリスには、エドマンド・バークのような政治思想的な保守主義以外にも、アイザック・ウォルトン、トーマス・カーライルのような生き方を重視する保守主義もある[8]。イギリス保守党の元チェアマンクィンティン・ホッグは「保守主義は態度ないしは定常的な精神の作用[注釈 1]以上のものをさす哲学ではなく、自由社会が発展する過程で時代に左右されない働きをするものであり、人間本性それ自体が心の底から恒常的に要請するものである。」[9]という。保守党の理論家ヒュー・セシル(英語版)によると、コンサーヴァティズムには政治的保守主義・近代保守主義以外に自然的保守性がある[注釈 2]。自然的保守性とは、新しいもの・未知なるものへの恐怖と、現状を積極・消極両面で維持することを欲する感情のことである。これは慣れたものに愛着を持つという人間の性質であり、思想的な主義主張ではない。
マイケル・オークショットによれば、保守的であるとは『見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。或る人々にとってはこうしたこと自体が選択の結果であるが、また或る人々にとっては、それは好き嫌いの中に多かれ少なかれ現れるその人の性向であって、それ自体が選択されたり特別に培われたりしたものではない。』とする[10]。
サミュエル・P・ハンティントンによると、保守主義には次の三つの定義がある[11]。
革命的定義歴史の中の特殊な社会運動として定義。この時期の定義は、フランス革命、あるいは18世紀の終わりから19世紀前半のブルジョワジー勃興に対する、封建的勢力・貴族階級・地主階級による反動であるとする。この解釈では保守主義は地位、そして旧体制と結びつき、中間層、労働者、民主主義、そして個人主義などといった思想と対立する。
普遍的定義その思想の内容、固有の観念・価値などによる定義。保守主義は正義、秩序、均衡、そして穏健などといった普遍的価値の自律的体系であるとする。
状況的定義いつの時代にも見られる、歴史を越えた存在として定義。保守主義は、どんな社会秩序であろうと、それを正当化しようとするものであるとする。この定義によると、保守主義の本質は現存する制度の価値を情熱的に肯定することにある。ただし、この定義によると、保守主義はあらゆる変化に反対するわけではなく、社会の根本的要素を残すために第二義的変化を黙認することもある。
ハンティントンは、このうち1と2の定義は不適切であると考え、「保守主義の性格は静態的なものであり、同様の社会状況が生じた場合に見られる反復的なものであり、そして進歩的なものではない」としている。
アンソニー・クイントンは、伝統主義、社会主義的一体性を有機的に成長するものとみなす共同体主義、政治的懐疑主義の3つが保守主義の原理とする[12]。
なお、歴史上の多くの思想には、革命的・進歩的な要素と、保守的・復古的な要素が存在している。キリスト教、イスラム教、プロテスタントなどは、従来の伝統的な宗教勢力を否定する一方で、聖書の教えへの復帰を主張した。近代主義(啓蒙主義、自由主義)は、進歩主義を掲げて従来の封建主義社会を解体していったが、古代ギリシアなどを西洋文明の起源と主張した(ルネッサンス)。アナキズムや共産主義などは、社会改良や革命を掲げる一方で、資本主義によって解体された多文化社会や共生社会の復活を主張した。 17世紀に、イギリスのエドワード・コークは中世ゲルマン法を継承したコモン・ローの体系を理論化した。18世紀には、エドマンド・バークがコモン・ローの伝統を踏まえて著書『フランス革命についての省察』を公表し、保守思想を大成した。この著書は、フランス革命における恐怖政治に対する批判の書でもある。バークが英国下院で革命の脅威を説いた1790年5月6日が近代保守主義生誕の日とされる。このような経緯からバークは「保守思想の父」と呼ばれている。バークは歴史的に継承され社会の一般的な考えとまでなった意見や信念を ancient opinions(古来の意見)、prejudice(偏見、固定観念)と呼び、イギリスの場合は国教会が第一の prejudice であるとし、イギリスの政治思想とした[13]。また国家は「一時的な便宜の観念に従って取り上げたり抛り出したりできるものではない」とし、国家とは憲法の基礎であり、教会とも不可分とした[13]。バークはルソーの社会契約論やフランス革命のように人為に対して全幅の信頼を寄せることはできず、人為に依拠した正統化理論は採用できないと考えた[13]。 政治と宗教の関係、政教分離問題についての保守主義の見解として、バークの優れた解釈者でもあった保守党の政治家ヒュー・セシルは、新約聖書では「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」とあり、これは宗教的事項と世俗的事項の分離であって「国家の権威が及ぶ領域においては、それに服従しなければならない。ただし、その領域は純粋に宗教的な事項に及ぶことはない」とのべた[14]。セシルは、規範は宗教化した政治(国家)によって教化されてはならず、規範は、人間がそれぞれ信仰を通して内面において理解するべきものであると論じ、国教会は国家の一機関ではなく、人々の内面性涵養の場であるとした[14]。 かつてトーリー主義と呼ばれていたイギリスの保守主義は、王政復古時代(1660年?1688年)に生まれた。神授王権によって統治を行う君主をともなう階級社会をイギリス保守主義は支持した。しかし立憲政府を確立した名誉革命(1688年)は、トーリー主義の再公式化をもたらした。再公式化後のトーリー主義においては統治権は国王、上院、下院の三つの身分に与えられたと現在ではみなされている[15]。 保守派の歴史家たちによると、リチャード・フッカーは保守主義の創始者であり、ハリファックス侯爵は彼のプラグマティズムが賞賛されるべきであり、デイヴィッド・ヒュームは政治における合理主義を保守的に信用しなかったことが賞賛されるべきであり、エドマンド・バークは初期の指導的な理論家とみなされる。
イギリス詳細は「イギリスの保守主義」を参照
エドマンド・バーク
トーリー主義と保守党