保守統一党(ほしゅとういつとう、英語: Conservative and Unionist Party )、略称で保守党(ほしゅとう、英語: Conservative Party )は、イギリスの政党。王政復古期のトーリー党に起源を持つ中道右派又は右派政党[14][15][10][16][17]。
以降20世紀初頭までは自由党と、1920年代以降は労働党と共に2大政党制を形成し[18]、政権交代を繰り返している。
2010年5月11日に成立した第1次キャメロン内閣(デーヴィッド・キャメロン党首兼首相)より、政権与党にある。 正式名称の保守統一党(ほしゅとういつとう、英語: Conservative and Unionist Party)はスコットランドと北アイルランド以外ではあまり使用されず、通常は保守党(ほしゅとう、英: Conservative Party)を党名として使用する。国際民主同盟に加盟している[19]。1830年代にロバート・ピールが前身のトーリー党を、自由主義的改革が時代の潮流であるとして党名を「保守党」と改めた[14]。しかし、現在でも党の俗称として「“Tory”(トーリー)」が使用されることがある。 保守党の歴史は、通説では党組織の連続性を確証しがたいため、名誉革命当時のトーリー党まで遡ることはできない[2]。一方で直接の起源は1780年代から1800年代にかけてのウィリアム・ピット(小ピット、1783年から1801年及び1804年から1806年まで首相)の支持者たちのグループに求められる。彼らの多くはホイッグ出身であり、小ピット自身もホイッグとして経歴をスタートさせたため独立派ホイッグと名乗っていた。この時期にはピットの支持者たちはトーリーと協力し、チャールズ・ジェイムズ・フォックス率いるホイッグの一派と対峙する状況が生じた。1806年の小ピットの死後はホイッグ出身のピット派もトーリーを名乗るようになり、旧来のトーリーを含めて新しいトーリーが誕生した。 ピット派に加えて新しいトーリーの誕生に寄与したのがロッキンガム派のホイッグ(ロッキンガム・ホイッグ この保守党の直接の祖先であるピット派もしくは新しいトーリーは1783年の第1次ピット内閣成立から1830年まで短期間(1801年 - 1804年、1806年 - 1807年)を除いて一貫して政権を担い、特にリヴァプール伯爵は1812年から1827年まで15年に渡って首相として安定した政権を維持した。しかしこのリヴァプール政権の末期にはカトリック解放問題を巡る党内の対立が現れ始めた。リヴァプール伯爵の後任はカトリック解放に積極的なジョージ・カニングであったが解放反対派はカニング内閣への協力を拒否した。内閣はカニングの突然の死によって短命に終わり、カニング派のゴドリッチ子爵の数か月余りの内閣を経て初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが1828年に首相に就任した。その後1830年には議会での不信任決議案の可決によりウェリントン公爵は首相を辞職し、23年ぶりにグレイ伯爵率いるホイッグに政権を明け渡した。 この間党内対立の焦点であったカトリック解放問題はウェリントン内閣の下でカトリック解放が成立したことにより解決したものの、ウィリアム・ハスキソン、パーマストン子爵らカニング派 保守党が誕生した正確な年代を特定することは困難である。既に1820年代にはジョージ・カニングが自らの政治的立場を語る際にトーリーの語を避けて“conservative”と表現している。しかし保守党の誕生は1830年代の組織改革の結果と一般には考えられている。まず1832年の第1次選挙法改正に際しトーリー議員を中心とする反対派が“conservative”と自ら名乗るようになった。同時期にはカールトン・クラブ
名称
党史
起源 ( - 1830年代)
保守党の誕生と二大政党制の確立 (1830年代 - 1886年)
こうして誕生した保守党による最初の本格的な政権は1841年に成立した第2次ピール内閣であった。ピール内閣は内政面でタムワース・マニフェストにも現れた自由主義的な路線に沿って政権を運営してきたが、1845年に生じた穀物法廃止問題で危機に直面した。穀物法こそはナポレオン戦争後のイギリスの保護主義政策を支える法案のうちで最重要のものであり、従って同法の廃止は通商政策の保護貿易から自由貿易への転換を意味していた。穀物法廃止賛成派は閣僚及び党幹部の間では多数を占めていたが、農業に利害を持つ地主貴族の多い一般議員も含めた党内全体では少数派であった。