保元の乱
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しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。劣勢の忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったのである。当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。
近衛天皇崩御

内覧となった頼長は旧儀の復興に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁親王への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人のみであり、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した[5]。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・ワ子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった[注釈 4]。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる[8]。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させ仲介役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
鳥羽法皇崩御

新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と?子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、?子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。

ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義平清盛北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという[注釈 6]。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿源光保平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏源義朝源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた[10][注釈 7]

それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した[注釈 8]。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った[注釈 9]
経過『保元・平治合戦図屏風』(神泉苑蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛
挑発の開始

鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた[10]。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏源親治が基盛に捕らえられている[12]。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範[注釈 10]は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している[13]

この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される[注釈 11]。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
崇徳上皇の脱出

7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。
両軍の対峙

10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲経憲の兄弟、武士では平家弘源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった[注釈 12]。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた[1]。白河北殿では軍議が開かれ、源為義は高松殿への夜襲を献策する[注釈 13]。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。

これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」[14]として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政源重成源季実平信兼・平維繁が続々と召集され、「軍、雲霞の如し」[14]と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・徳大寺実能が軍勢出撃後に姿を現しただけである。


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