『平家物語』の覚一本(屋代本)では藤原成経、平康頼、俊寛の三人は「鬼界嶋」に流されたとされており、硫黄島(鹿児島県三島村)のことと考えられている[7][8]。延慶本では「鬼界嶋」は異名で「油黄嶋(油黄島)」であるとする[9]。「鬼界嶋」については硫黄島のほか、喜界島や長崎県長崎市の伊王島などとする説もあるが、延慶本の「油黄嶋(油黄島)」の記述には「薩摩国」にあり火山がある(「嶺ニハ火モヘ」)とされており硫黄島説が最も有力とされている[9]。
また、延慶本では当初三人は異なる島に流刑されていたとしており、成経は「油黄島」、康頼は「アコシキノ島」、俊寛は「白石ノ島」と記している[7]。このうち俊寛の流刑地の「白石ノ島」については宮古島説(伊地知季安『南聘紀考』)、宝島説(『三島村誌』)もあるが、延慶本の記述にある「端五島ガ内」に含まれないとして竹島であるとする説もある[7]。三人が最初から揃って同じ島に流されたという認識は覚一本や流布本系統の『平家物語』によって形成されたものである[7]。
なお、硫黄島にはかつて俊寛旧邸宅跡の碑が残されており、喜界島には俊寛の墓と銅像が、長崎市の伊王島にも墓がある。ひそかに島を脱出したという説も多く、阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。「鬼界ヶ島」を参照
俊寛を題材にした作品
世阿弥『俊寛