侯爵
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グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentisimo Senor (男性) Excelentisima Senora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrisimo Senor (男性) Ilustrisima Senora(女性)の敬称で呼ばれる[36]

侯爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[36]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[36]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[36]。爵位の継承には所定の料金がかかる[36]

歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国アラゴン連合王国ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり[37]、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた[38]。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した[38]

1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[39]1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[36][40]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[36]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
主なスペインの侯爵詳細は「スペインの侯爵一覧(スペイン語版)」を参照

2018年時点においてスペインの侯爵位は1397個存在しており、うち153個がグランデの格式を伴う侯爵位である[41]。有名な物には南米アステカを征服したエルナン・コルテスの子孫が保有するバジェ・デ・オアハカ侯爵、総統フランシスコ・フランコの子孫が保有するビリャベルデ侯爵、現当主がファッションデザイナーのアガタ・ルイス・デ・ラ・プラダ(スペイン語版)であるカステルドスリウス侯爵(スペイン語版)、現当主が国民党所属のスペイン下院議員カイエターナ・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)であるカサ・フエルテ侯爵(スペイン語版)などがある。すでに廃絶した侯爵位だが画家サルバドール・ダリもダリ・デ・プブル侯爵(スペイン語版)に叙位されていた。

カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも41個の侯爵位が存在した[36]
中国の侯爵「中国の爵位(中国語版)」も参照

西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制禄爵、公侯伯子男凡五等」とあり、「侯」は五つある爵の上から二番目に位置づけている[42]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、侯は領地を賜るものとしている[43]。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している[43]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[44]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[45]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[46]

代においては二十等爵制が敷かれ、「侯」の爵位は存在しなかったが、列侯関内侯が置かれた。咸熙元年(264年)、爵制が改革され、侯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[47]食邑は大国なら千六百戸、七十里四方の土地、次国なら千四百戸、六十五里四方の土地が与えられることとなっている[47]。その後西晋でも爵位制度は存続し[48]恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた[48]。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている[49]

南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[50]
主要な中国の侯爵

咸熙元年の五等爵制発足時には、三公であった王祥鄭沖、そのほかの重臣賈充石苞衛?裴秀何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている[51]。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬駿も「侯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後は諸侯王となった[52]

太康の役の論功行賞として、杜預王濬唐彬王戎といった軍事司令官や[53]、呉討伐を勧めた張華が侯の爵を受けている[54][55]。これらの戦役の功労者には、規定を超えた食邑も与えられた。張華には一万戸、杜預には九千六百戸の食邑が下されている[56]。また羊?武帝受禅の際に子から侯に進められている[57]。他には西晋滅亡時の太尉王衍も侯(武陵侯)であった[52]
脚注[脚注の使い方]^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)942頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)849頁参照。
^ 小田部雄次 2006, p. 13.
^ 小田部雄次 2006, p. 21.
^ 浅見雅男 1994, p. 71-76.
^ 小田部雄次 2006, p. 26.


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