侯景の乱
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以後の侯景は上表を思いのままにおこない、言葉遣いは不遜なものとなった。?陽王蕭範は合肥に駐屯しており、司州刺史の羊鴉仁とともに侯景が反乱を企んでいると奏上しようとしたが、領軍の朱?が握りつぶして奏聞させなかった。武帝は侯景に賞賜を加えて、ますます増長させることとなった。侯景は臨賀王蕭正徳が朝廷を恨んでいることを知って、これと密約を結んだ。
反乱の開始

8月、侯景はついに兵を発して反乱を起こし、馬頭や木柵を攻めて、太守の劉神茂や戍主の曹?らを捕らえた。武帝は郢州刺史の?陽王蕭範を南道都督とし、北徐州刺史の封山侯蕭正表を北道都督とし、司州刺史の柳仲礼を西道都督とし、通直散騎常侍の裴之高を東道都督として、ともに侯景を討つべく、歴陽から渡河させた。さらに開府儀同三司・丹陽尹の邵陵王蕭綸に節を持たせて、諸軍を総督させた。

10月、侯景はその中軍の王顕貴を寿春城にとどめて守らせ、軍を出して合肥に向かわせるふりをし、実際には?州を襲撃した。助防の董紹先が開城して侯景に降ったため、?州刺史の豊城侯蕭泰が侯景に捕らえられた。武帝がこのことを聞くと、太子家令の王質に水軍を率いさせて長江を巡回警備させた。侯景が歴陽に進攻してくると、歴陽郡太守の荘鉄が弟の荘均に命じて侯景の陣営を夜襲させたが敗れ、荘均は戦没し、荘鉄もまた侯景に降った。

蕭正徳は先だって大船数十艘を長江に派遣し、荻を載せると称して、侯景の兵を渡らせる準備をしていた。侯景は京口に到着して、長江を渡るにあたり、王質の襲撃を警戒していた。まもなく王質がゆえなく撤退したとの知らせが届いたが、侯景はなおも信じず、ひそかに偵察を派遣した。侯景は偵察者に「王質がもし撤退したのであれば、江東の樹枝を折って印とすべし」と言い含めておいた。偵察者が言ったとおりの返事をしたので、侯景は「わが事はうまくいきそうだ」と大喜びした。采石から馬数百匹、兵千人で長江を渡ると、建康の朝廷の不意を突いた。侯景は兵を分けて姑孰を襲い、淮南郡太守の文成侯蕭寧を捕らえ、慈湖に達した。武帝の命により揚州刺史の宣城王蕭大器が都督城内諸軍事となり、都官尚書の羊侃が軍師将軍としてこれを補佐した。南浦侯蕭推が東府城を守り、西豊公蕭大春石頭城を守り、軽車長史の謝禧が白下城を守った。

侯景が朱雀航に達すると、蕭正徳は先に丹陽郡に駐屯しており、部下を率いて侯景と合流した。ときに建康県令の?信が1000人あまりの兵を率いて航北に駐屯していた。?信は侯景の兵が朱雀航にやってきたと見るや、浮き橋の撤去を命じたものの、浮き舟一隻を取り除き始めたところで、軍を捨てて南塘に逃げ出した。侯景の遊軍が朱雀航の浮き橋を復旧させて侯景本隊を渡させた。皇太子蕭綱は乗馬を王質に授けて、精兵3000を配し、?信を救援させようとした。王質は領軍府にいたって、反乱軍と遭遇すると、戦う前に逃亡した。侯景は勝利に乗じて城下に迫った。西豊公蕭大春は石頭城を捨てて逃走し、侯景はその儀同の于子悦を派遣して石頭城を占拠させた。謝禧もまた白下城を放棄して逃亡した。侯景はこのためあらゆる方向から建康城を攻撃できるようになり、たいまつの火で大司馬門・東華門・西華門を焼いた。城内の兵士たちは門楼を破壊し、水をかけてどうにか火を消し止めた。反乱軍が東掖門を切り破って開こうとすると、羊侃が門扇を穿って、数人を刺殺したため、反乱軍は撤退した。また反乱軍は東宮の城壁を登って、城内に弓を射かけた。これに対処するため、皇太子蕭綱が人を募って夜間に東宮を焼かせると、東宮台殿は灰燼と化した。さらに侯景は城西の馬厩・士林館・太府寺を焼いた。翌日、侯景は木驢数百を作らせて城を攻めようとしたが、城の上から石が投げ打たれ、できあがった所からみな破壊された。
建康の包囲

侯景は建康を攻め落とすことができず、損耗も多くなったため、攻撃を中止し、長囲を築いて内外を遮断し、中領軍朱?・太子右衛率陸験・少府卿徐・制局監周石珍らの処刑要求を掲げた。いっぽう建康に籠城した官軍は城外に矢文を射かけさせ、その矢文には「侯景の首を斬ることができた者には、侯景の官位を授け、合わせて銭1億万と布絹おのおの万匹と女楽2部を与える」とあった。

11月、侯景は蕭正徳を帝に擁立し、儀賢堂で即位させた。年号を正平と改めた。侯景は自ら相国・天柱将軍となり、蕭正徳の娘を妻に迎えた。

侯景はさらに東府城を攻撃し、百尺の楼車を設けて、城のひめがきを吊り上げて落とすと、東府城は陥落した。侯景はその儀同の盧暉略に数千人を率いさせ、長刀を持って城門を挟んで配置させた。東府城内の文武の者たちがことごとく追い立てられて裸身で城を出されると、反乱兵たちはかわるがわるこれを殺した。死者は2000人あまりに及び、南浦侯蕭推はこの日に殺害された。侯景は蕭正徳の子の蕭見理や儀同の盧暉略に東府城を守らせた。

侯景は建康城の東西に城内を見下ろせる土山を築いた。城内もまた対抗して、王公以下がみな土を背負い、ふたつの山を築いた。当初、侯景は建康平定を容易なものと信じて、民衆の財産を奪わなかった。しかし建康攻囲が長引き、官軍の援軍の集結を恐れるようになると、兵士たちにほしいままに略奪させるようになり、また子女や妻妾を軍営に引き入れるようになった。土山を築くにあたって、侯景は貴賤を問わず民衆を動員し、殴打や鞭打ちを加えて昼夜休まず働かせた。侯景の儀同の范桃棒がひそかに使者を派遣して官軍への投降を願い出たが、事が漏れて殺害された。

ここにいたって、邵陵王蕭綸が西豊公蕭大春・新塗将軍永安侯蕭確・超武将軍南安郷侯蕭駿・前?州刺史趙伯超・武州刺史蕭弄璋・歩兵校尉尹思合らを率い、3万の軍勢で京口から出立し、直進して鐘山に拠った。侯景は1万人あまりを分遣して蕭綸をはばもうとしたが、蕭綸はこれを撃破して、1000人あまりを斬首した。侯景は再び覆舟山の北に布陣した。蕭綸もまた陣をならべて待ったが、侯景は進まず、両軍にらみ合いの態勢となった。日暮れになって、侯景が軍を返そうとしたところ、南安侯蕭駿が数十騎を率いて挑んできたため、侯景は軍を返して戦い、蕭駿を退却させた。このとき趙伯超の陣が玄武湖の北にあったが、蕭駿の急を見ても赴かず、軍を率いて先に逃走したため、蕭綸の軍は総崩れとなった。蕭綸は京口に逃れた。反乱軍は輜重や兵器を鹵獲し、数百人を斬首し、千人あまりを生け捕りにした。侯景は西豊公蕭大春や蕭綸の司馬の荘丘恵達、直閤将軍の胡子約や広陵県令の霍儁らを捕らえ、建康城下に送らせると、脅迫して「すでに邵陵王は捕らえられた」と口々に言わせた。霍儁はひとり「王はささやかな敗戦をなさったが、すでに全軍が京口に帰還している。城中はただ堅守していれば、援軍はまもなくやってくる」と言った。反乱兵が刀で霍儁を殴打したが、霍儁の言葉も顔色ももとのとおりであったため、侯景は義に感じてかれを許した。

この日、?陽世子蕭嗣と裴之高が後渚にいたり、蔡洲に陣営を張った。侯景は軍を分けて南岸に駐屯させた。

12月、侯景は飛楼・橦車・登城車・登?車・階道車・火車といった攻城具を作り、城壁の前に並べた。火車で城の東南隅の大楼を焼くと、反乱軍は火勢に乗じて城を攻めようとしたが、城壁の上からも火を放たれて攻城具を焼き尽くされたため、反乱軍は撤退した。また土山を築いて城に迫ろうとしたが、城内から地下道が作られて土山を引き落としたため、これまた失敗した。材官将軍の宋嶷が反乱軍に降り、かれが一計を案じて、玄武湖の水を引いて台城に注いだ。さらに南岸の民居や寺が焼き尽くされた。

司州刺史の柳仲礼、衡州刺史の韋粲南陵郡太守の陳文徹、宣猛将軍の李孝欽らが、建康救援のためにやってきた。?陽世子蕭嗣や裴之高もまた長江を渡った。柳仲礼は朱雀航の南に陣営を置き、裴之高は南苑に陣営を置き、韋粲は青塘に陣営を置き、陳文徹と李孝欽は丹陽郡に駐屯し、?陽世子蕭嗣は小航南に陣営を置き、いずれも秦淮河の縁に柵を造った。明け方になって侯景がこのことに気づくと、禅霊寺の門楼に登って見回し、韋粲の陣営の塁がまだ完全でないのを見つけると、先んじて兵を渡らせてこれを攻撃した。韋粲は抗戦したが敗れ、侯景は韋粲の首を斬って城下に見せつけて回った。柳仲礼は韋粲の敗北を聞くと、鎧を着ける間もなく、数十騎とともに駆けつけ、反乱軍と抗戦して、数百人を斬首し、秦淮河に身を投げて死んだ者は1000人あまりに及んだ。柳仲礼は深入りして、馬が泥にはまり、重傷を負った。

邵陵王蕭綸と臨成公蕭大連らが東道から南岸に集結した。荊州刺史の湘東王蕭繹が世子の蕭方等や司馬の呉曄や天門郡太守の樊文皎を建康救援のために派遣し、長江を下ると湘子岸の前に陣営を置いた。高州刺史の李遷仕や前司州刺史の羊鴉仁もまた兵を率いて相次いで到着した。?陽世子蕭嗣・永安侯蕭確・羊鴉仁・李遷仕・樊文皎が兵を率いて秦淮河を渡り、反乱軍の東府城前柵を攻撃して、これを破った。蕭嗣らは青渓水の東に陣営を結んだ。侯景は儀同の宋子仙を南平王の邸に派遣して駐屯させ、水縁の西に柵を立ててはばませた。

侯景の軍は糧食が尽きて、飢えに苦しんだ。東城には食糧が備蓄してあったが、そこまでの道は諸侯の援軍に遮断されていた。いっぽうの建康城内も米40万斛の備蓄はあったものの、魚や塩や薪が不足していた。そこで尚書省の建物を壊して薪とし、飼っていた馬を屠殺して食い尽くした。反乱軍が水源に毒を入れたために、腫れむくみの病が流行し、城中の病死者は過半を数えた。城内で防戦の指揮を執っていた羊侃がこの月に病没した。
偽りの和約

549年(太清3年)1月、侯景は年初から講和を願い出ていたが、武帝の許可が下りないでいた。しかし皇太子蕭綱の諫めを受けて、武帝はこれを聞き入れることとした。侯景は江右4州の地の割譲と、あわせて宣城王蕭大器の身柄を人質として要求し、その後に包囲を解いて長江を北に渡る条件を提示した。さらに侯景はその儀同の于子悦や左丞の王偉を建康に入城させて交換の人質とすることを許した。梁の中領軍の傅岐は宣城王蕭大器が皇太子の嫡嗣であることからこれを拒否し、代わりに石城公蕭大款を送るよう願い出た。この条件で両者は合意した。2月己亥、西華門の外に壇を設けて、梁の尚書僕射の王克や兼侍中の上甲郷侯蕭韶および兼散騎常侍の蕭瑳が、侯景側の于子悦や王偉らと壇に登って和約を誓った。梁の左衛将軍の柳津が西華門下を出ると、侯景がその柵門を出て、柳津と距離を取って相対し、犠牲の牛の血をすすった。

南?州刺史の南康嗣王蕭会理、前青冀二州刺史の湘潭侯蕭退、西昌侯世子蕭ケの率いる兵3万が?州に到着した。侯景はこの軍が白下城から北に展開して、長江への道を絶つことを恐れて、秦淮河の南岸に移るよう求めた。武帝は侯景の要求を呑んで蕭会理らを江潭苑に進軍させた。いっぽう侯景は言を左右にしながら、和約の条件を守らず、建康の包囲を解こうとしなかった。
建康の陥落と武帝の死

3月1日朝、城内は侯景が盟約を違えたとして、烽火を上げて鼓を打ち騒がし、羊鴉仁・柳敬礼・?陽世子蕭嗣らが東府城の北に進軍した。かれらが柵塁を立てないうちに、侯景の部将の宋子仙の襲撃を受け、官軍は敗れ、秦淮河に追い落とされた死者は数千人に及んだ。討ち取られた首級は城下に送られて見せしめにされた。

侯景は再び于子悦を派遣して、講和を願い出た。御史中丞の沈浚が侯景のもとに派遣されてやってくると、侯景に立ち去る意志のないことを強く責めた。侯景は激怒して、即座に石闕の前でせき止めていた水を流し込み、昼夜休まず四方から城を攻め立てたので、3月丁卯、建康はついに陥落した。

侯景は入城すると武帝と会見したが、武帝の態度が堂々としていたのに対して、侯景は萎縮してどもってしまった。武帝が「かつて長江を渡りしとき、幾人ありや」と訊ねると、侯景は「千人」と答えた。武帝がまた「台城を囲みしとき、幾人ありや」と訊ねると、侯景は「十万」と答えた。武帝が「いま幾人ありや」と訊ねると、侯景は「率土のうちわが有にあらざるはなし」と答えた。

侯景は城内の乗輿や服飾や趣味の文物、さらに後宮の嬪妾たちをことごとく略奪した。王侯や朝士たちを収監して永福省に送り、武帝と皇太子の侍衛を解任した。王偉には武徳殿を守らせ、于子悦には太極東堂に駐屯させた。武帝の詔といつわって天下に大赦し、自らは侍中・使持節・大丞相・河南王のまま、大都督・中外諸軍事・録尚書事となった。城中は遺体だらけで埋葬の暇もないほどであった。侯景は葬儀の済んでいない遺体や、死にかけでまだ息絶えていない者を集めて全て焼かせたため、その臭気は十数里に及んだ。尚書外兵郎の鮑正が病重く、反乱軍に引き出されて焼かれると、火中を輾転として久しくして息絶えた。建康救援に集まっていた諸軍はそれぞれ撤退していった。侯景は蕭正徳を降格させて侍中・大司馬とし、梁の百官をみなその職に復帰させた。

侯景は董紹先に広陵を襲撃させると、南?州刺史の南康嗣王蕭会理が広陵城をもって降伏した。侯景は董紹先を南?州刺史とした。

かつて北?州刺史の定襄侯蕭祗と湘潭侯蕭退、および前潼州刺史の郭鳳がともに起兵して、建康救援に赴こうとしていた。建康が陥落するに及んで、郭鳳は淮陰をもって侯景に帰順しようと図った。蕭祗らはこれを止めることができず、ふたりはそろって東魏に亡命した。侯景は蕭弄璋を北?州刺史としたが、州民が兵を発してこれをはばんだ。侯景は廂公の丘子英と直閤将軍の羊海に兵を与えて蕭弄璋の援軍に向かわせたが、羊海が丘子英を斬り、その軍を率いて東魏に降ったので、東魏が淮陰を占拠した。


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