八王子に生まれ、中学卒業まで生活していた[2]。
小さい頃は虚弱体質で、朝礼でも途中で貧血を起こし倒れたり、運動会の徒競走でもビリで、週に一度は病院に通っていた[2]。小児麻痺や小児リュウマチと診断され、3日に一度は注射のため通院する日々もあったが、小学5年生辺りから回復して、成績も体力もよくなかったのが、徒競走でも一等、成績もあがって優等生になった[2]。
父が画家で中学の美術の先生をしていたこともあり、小学生のころから絵を書くのが好きで、絵の成績だけはよかったが、「父親が絵の先生だからうまいのは当たり前」といわれるのが気に入らず、中学に入ってからは授業以外で絵を書くこともなかったが、都立日野高校に進学してから、「自分が絵がうまく描けるのと父親は関係ない」と開き直るようになり、高校時代は将来マンガ家になろうと思っていた[2]。父親が演劇部の顧問をしていたこともあり、芝居も好きだった。しょっちゅう学生演劇を見に連れていかれ、八王子の新制作座の芝居もよく見に行った。高校では演劇部に入るだけではなく、クラスの有志を募って同好会を作り、仲間と一緒に脚本も書いた。演劇に熱中しすぎたせいか、成績は芳しくなかった[2]。
トキワ松学園女子短期大学絵画科在学中[3]、父の友人であった画家から、「テレビで新人女優を募集しているから受けたらどうか」と打診され、芝居をやるか絵を描くか悩んでいた時期だったが、冗談で応募したら[2]、NTV主催のミス『水滸伝』コンテストで二位入選。これを機に芸能界入り[3]。
このコンテストに審査員で参加していた主演の中村敦夫の目にとまり、中村の事務所に入り、17歳で1974年の映画『襤褸の旗』にて大関優子の芸名でデビュー[2]。
19歳で中村の事務所は解散したため、新しい事務所に移るが、芸名のせいかお嬢さん役ばかり来る中、「23歳までに、日比谷界隈の映画館に私の絵のパネルを掛ける」というのが、そのころの夢であり、新事務所との約束だったこともあり、夢を実現するために現状を突破したいと思っていたとき、映画『ザ・ウーマン』の話が来た[2]。裸のシーンもあったが、女優として生まれ変わるのに、裸というのも面白いと[2]、1980年公開の映画『ザ・ウーマン』より、芸名を佳那晃子に改める。この『ザ・ウーマン』の企画に参加していた小池一雄がこの芸名の名付け親になった[3]。デビュー時からはっきりした目鼻立ち・妖艶な色気・脱ぎっぷりの良さで人気を集め、『魔界転生』では病気降板した高瀬春奈の代役で細川ガラシャ役に抜擢された[4][5]。
1990年に放送作家の源高志と結婚。源の前妻との離婚を待ってからの入籍だったため、公表はその1年半後であった。バブル崩壊後に夫の経営する会社のトラブルを発端とした多額の借金を抱え、返済のために倹約生活を送ることになった。もともと堅実な金銭感覚の持ち主だったため、返済は着実に進んでいった[6]。
テレビドラマでは2時間ドラマをメインに出演し、1994年にはヘアヌード写真集『幻想』を発売。これも借金返済の足しにするという目的だった。
重度のネフローゼ症候群により4年間の闘病生活を続けていたが、2009年12月19日、東京・渋谷のセルリアンタワー能楽堂で上演の『名作語り 高野聖』の朗読劇にて女優業に復帰した。
2013年1月10日、自宅でクモ膜下出血のため倒れて意識不明状態となり、病院に搬送された。医師からは病状が最も重い「重度5」であり、脳死もしくは植物状態であると診断されたが、蘇生措置により回復、その後の治療の結果、8月には問いかけに手足の動きや瞬きなどで反応できるまでになった[7][8]。12月1日、夫を中心に西田和昭を始めとする有志による佳那晃子オフィシャルサイト「佳那晃子が病院から歩いて帰って来るまでのサイト(閉鎖)」が公開された。同サイトの源高志によるブログには、佳那晃子が倒れた2013年1月10日からの様子と、2013年12月1日からの様子を併記して、毎日更新されていた(閉鎖)。
2020年に新型コロナウィルス感染拡大を受けて、源は毎日1時間ほどの面会もできなくなっていたが、9月2日に院内でパソコンを通じたオンラインでの対面で20分ほど再会できた[9]。
特技はピアノ[1]、絵画[1]。
出演
映画
大関優子名義
襤褸の旗 (1974年、映画「襤褸の旗」製作委員会) - タキ
異邦人の河 (1975年、緑豆社) - 方順紅
はだしのゲン (1976年、現代ぷろだくしょん) - 大里先生
犬神家の一族 (1976年、角川春樹事務所 / 東宝) - 青沼菊乃
男組 少年刑務所 (1976年、東映) - 桜魔子
人間の骨(1978年、「人間の骨」映画プロダクション) - 藤田絹子
ガキ大将行進曲 (1979年、青銅プロダクション / 山梨教育映画)
佳那晃子名義
ザ・ウーマン