このように情勢が緊迫していたため、袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していた。しかし8月、何進は無警戒に宮中に参内したところを、宦官の段珪・畢嵐が率いた兵によって取り囲まれ、張譲に罵倒されながら嘉徳殿の前で殺害された。張譲らは何進を殺害すると詔を偽造し、宦官らに親属していた少府の許相と太尉の樊陵を利用し、都の兵を握ろうとした。このとき命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せて示したという。
しかし、何進が普段から部下に対して親しく接していたため、激怒した何進の部下たちの反攻に遭うことになった。袁術は兵を挙げ、何進の部曲であった呉匡らとともに宮中に突入し、何太后の身柄を確保したが、少帝と陳留王(劉協)の身柄を宦官に奪われた。また、袁紹も叔父の袁隗ならびに盧植とともに、許相らを誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬った。
こうして、宮中から宦官とそれに味方する勢力は一掃された。少帝と陳留王の身柄を奪って逃走した宦官の残党らも、変を知り軍を率いて上洛してきた董卓から自殺に追い込まれたという。少帝と陳留王は董卓に保護され都に戻ることが出来た。しかしこの混乱の中で、何苗も呉匡により殺害されてしまい、何氏は大きく勢力を弱めることになった。
小説
三国志名臣列伝 後漢篇 (宮城谷昌光、文藝春秋、2018年)
脚注^ 何晏の記事を参照。
^ 楊鑑生『何晏叢考』によると、何晏は何苗の孫の可能性があると記されている(原文「何晏墓在廬江県北,而何進為南陽宛人,如何晏為其孫,不符合当時盛行之帰葬習俗。而廬江有朱氏,可能是何苗的籍貫,如何晏為何苗孫,帰葬廬江則順理成章。」)。
^ 石井仁・窪添慶文らによる霊帝時代の再評価を目指す研究成果に基づく。『後漢書』何進伝によると、大将軍の司馬である許諒と伍宕の進言により、何進が霊帝に上奏しその裁可を得た上で実行したことになっている。
^ 渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第七章「政治空間よりみた後漢の外戚輔政」
参考資料
後漢書/卷69
石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、2000年)