体操競技
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女子体操については、団体競技が1928年アムステルダムオリンピックから、世界体操競技選手権には1950年第12回世界選手権から、競技されるようになり、個人競技は、個人総合が1934年第10回世界選手権から、第12回世界選手権で種目別4種目が取り入れられ、1952年ヘルシンキオリンピック以降現在の形となった。
日本における体操競技
概要

団体総合に強く、1960 - 70年代にかけ、オリンピック・世界選手権にて男子団体総合が10連勝するなど、"日本式体操"が世界の頂点に君臨し「体操ニッポン」「お家芸」と謳われるまでに至った。日本人選手の名前が付く技も多い。

伝統的に鉄棒を得意とする選手が多い。
歴史

日本に器械体操が最初に導入されたのは、1830年(天保元年)頃、高島秋帆による藩の新兵訓練とされている[2]。徴兵令施行により、日本軍の新兵訓練にも採用された。しかし入隊後の訓練期間が惜しいと、学校教育にも器械体操が採用されるようになった。

1932年(昭和7年)、ロサンゼルス五輪に初参加したが、参加5ヶ国中最下位であった[2]。しかし、これを機に国際大会への参加も相次ぎ、学生スポーツとして徐々に盛り上がりを見せた。

第二次世界大戦後数年は、国際的な連盟に加盟できず、オリンピック・世界選手権等には出場できなかった。しかし、この間に外国(アメリカ、ドイツ等)との交流試合を開催し、世界水準にまで成長した。1952年(昭和27年)のヘルシンキ五輪では団体5位はじめ種目別でもメダルを獲得。1960年(昭和35年)にはローマ五輪にて男子団体優勝。以後約20年間の長期にわたり連覇を続け、さらに個人総合・種目別金メダルも多数獲得。文字通り、この時期の日本の体操は無敵と言えるもので、日本の体操は20年にわたり世界の頂点に君臨した。

ボイコット不参加となったモスクワ五輪前後から選手の技能継承の失敗やエースの後継者育成の失敗などの要因で凋落。ロサンゼルス五輪以降は長らく世界選手権を含め金メダル獲得が無く、不振の時代を迎えた。特にアトランタ五輪シドニー五輪はメダル無しに終わった(注:この間、世界選手権での銀・銅メダルはあった)。2000年(平成12年)前後には不況の影響もあり、企業の部活が相次いで休部・廃部に追い込まれた。

しかし、2003年(平成15年)に世界選手権種目別(鉄棒・あん馬)で金メダルを獲得、団体でも8年ぶりに表彰台に上がる等、復活の機運が見えはじめた。翌年のアテネ五輪で28年ぶりに男子団体優勝を果たし、再び世界のトップレベルに返り咲いたことを強く印象付けた。以後、北京五輪ロンドン五輪でも団体銀メダルを獲得する等、種目別・個人総合での優勝含むメダル獲得が続いている。2015年(平成27年)、世界選手権大会(グラスゴー)で37年ぶりに世界選手権で男子団体優勝を果たした。
年譜

1930年(昭和05年)4月13日、全日本体操連盟創立

1932年(昭和07年)、ロサンゼルス五輪に初出場

1939年(昭和14年)10月、日本体操競技連盟設立

1942年(昭和17年)1月、全日本体操連盟と日本体操競技連盟が統合、 財団法人・大日本体育会体操部となる

1946年(昭和21年)3月、日本体操協会設立

1951年(昭和26年)、国際体操連盟(FIG)に正式加盟

1954年(昭和29年)、世界選手権(ローマ)にて、竹本正男徒手)・池田敬子(平均台)が日本体操界初の世界選手権金メダル

1956年(昭和31年)、メルボルン五輪にて、小野喬(種目別鉄棒)が日本体操界初のオリンピック金メダル

1960年(昭和35年)-1978年(昭和53年)、ローマ五輪から世界選手権(ストラスブール)まで、オリンピック五連覇を含む団体総合10連勝(V10)を達成。

2001年(平成13年)、世界情勢の悪化から世界選手権への選手派遣を中止

主要な大会と競技種別
国際大会

オリンピック

世界体操競技選手権

世界ジュニア体操競技選手権

FIG体操ワールドカップ ※廃止

地域大会

この他に、アジア競技大会などの国際総合大会において体操競技が設けられている。

ヨーロッパ体操競技選手権

環太平洋体操競技選手権

アジア体操競技選手権

国内大会

Category:日本の体操競技大会も参照

全日本体操競技選手権

NHK杯体操選手権

外国人選手を招聘する大会


豊田国際体操競技大会(旧 中日カップ)

体操JAPAN CUP

この他に、ジュニア・学生・社会人向けの大会が行われている。
競技種別
団体総合
1チームから複数名が演技し、その合計得点を競う。演技者数・採用演技数等はルールによって変動する。
個人総合
男子は6種目・女子は4種目を1人の選手が演技し、その合計得点を競う。
種目別
1種目ごとの演技の得点を競う。



技と難度
難度.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ウルトラC」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ウルトラ#ウルトラC」をご覧ください。

この節の加筆が望まれています。

体操競技で難度は技や運動の難しさの程度を言う。跳馬を除き、男子はA?I、女子はA?Jまであり、それぞれ0.1?0.9または1.0点が配点されている。男子は10個の技の点の合計が、女子は8個の技の点の合計が難度点(Difficulty Value)になる。演技価値点すなわちDスコア(Difficulty)は難度点と構成要求(最大2.0)と組み合わせ加点の合計からなる。また、跳馬においては各技に得点が配点されており、それがDスコアとなる。本来難度はA?Cの3段階に分類されていたが、技術の進歩により1985年にはD難度、更に1993年にはE難度が導入された。しかしそれらをも上回るものが出てきたため、1998年から一時的にスーパーEが導入された後、2006年の規則改正に合わせてF難度、G難度が導入された。さらに2013年から採用される採点規則において、女子には新たにI難度が創設された。現在では難度が高い技ほど得点がのびやすいため難度の高い技を行う選手が増加している。

日常会話で使用され、「とっておきの大逆転技」という意味で用いられるウルトラCであるが、1964年東京オリンピック前に体操競技の難度を示す言葉として造語されたものである。発案者には諸説あり、『ブリタニカ国際大百科事典』の「小項目事典」では「最初に使ったのは国際体操連盟 FIG男子技術委員も務めた金子明友、普及に力を尽くしたのが東京オリンピック日本体操チーム総監督の佐々野利彦といわれる。」と記し[3]デイリースポーツ社史の『デイリースポーツ三十年史』では体操競技の強化委員を務めた上迫忠夫が五輪前年の強化合宿で取材に答えて発して報じたものを初出とする[4]。上記のように当時の難度はA,B,Cしかなく、当時の最高難度であったC難度よりもさらに難しい技という意味で使用されたとされるが[3]、上迫はむしろ「本来C以上のものもCに含まれていた」ため、そのようなものを区別するためにこの言葉で表現したという[4]


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