佐賀城下南に位置する「宝琳院」を本拠地とし、「宝琳院会」「憂国大社」「南組」などと呼ばれた。征韓党と比較すると、藩では位の高かったものが多く、壮年のものも多かった。幹部は旧藩時代には、組頭、代官、目付などの地位にあった[注釈 1]。征韓党より大規模でもあった。
主謀(党首)
島義勇(前秋田県権令)
会軸(幹部)
重松基吉(島義勇の弟)副島義高(島義勇の弟)村山長栄
佐賀・与賀町の「延命院」に本拠を置き、「延命院党」「征韓大社」「開化党」「北組」などと呼ばれた。憂国党幹部と比較すると、若年の下級士族[4]が中心で、官僚、軍人、県官の現職が多い。
明治7年1月下旬に[5]、香月経五郎、石井貞興ら征韓派の県官が佐賀県庁を掌握した。征韓派県官は、武器・弾薬・資金・糧食などの準備に職権を利用した[注釈 2]。なお征韓党は、県庁機構を私物化したが、日常業務は継続されていた。 憂国党、征韓党の開戦時の勢力は両党の政治的思想に自主的に集まった士族の有志勢力であった。開戦後は、旧佐賀藩の上級家臣の三支藩、親類、親類同格などの支配地領域を単位とする勢力[注釈 3]が加わっている。なお、元三支藩などの領主のほとんどは両党に対して、関係せずに中立を維持している[注釈 4]。 憂国党の軍事編成は、4個大隊編成である。『「佐賀の役」と地域社会』[7]による推定兵力は、 征韓党の軍事編成は、『「佐賀の役」と地域社会』[7]による推定兵力は、 薩摩や長州など諸藩の武士で構成された部隊が官軍を編成した戊辰戦争と違い、1873年(明治6年)に制定された徴兵令による国民軍が軍隊を編成して初めての大規模な内戦である。また、1871年から1876年までの短期間ながら大日本帝国海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。このほか、蒸気船(佐賀の乱には東艦・雲揚・龍驤・鳳翔の軍艦4隻、大坂丸など運送船9隻、チャーターした英米船2隻の計15隻が出動している)による迅速な行軍や電信技術なども使用されている。徴兵による鎮台兵は佐賀士族に対して善戦し、徴兵による軍隊が戊辰戦争を経験した士族とも互角に渡り合えることを示した。 このほか、大久保利通内務卿は、佐賀士族の蹶起によって刺激された福岡県士族が呼応して暴発することを未然に防ぐために、福岡県権参事の山根秀助(福岡県士族出身)に佐賀討伐の士族の徴募を指示している。これにより福岡県士族3600人が福岡城の大手門前広場に集まり、佐賀征討の軍事行動への参加を志願。その中から500人だけを選抜して、小銃と弾薬を与えて戦線に投入している。このほか、旧小倉藩からも500人の士族が志願している。士族の徴募は、軍事上の必要性ではなく、明治維新という大変動のあおりをくって、不平と鬱屈を詰まらせている士族の熱を、政治上の必要性から吐き出させるためのものであった。 ほか、不慣れな軍装による長距離の遠征で兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例がある。また電信も、迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は佐賀を経由して伝えられたため、当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど幾つかの問題点も発生している。 征韓論をめぐる明治6年の政変で中央を追われた江藤は、板垣退助や副島種臣、後藤象二郎からの説得や警告を受け流し、太政官より発せられた、「前参議は東京に滞在すべし」との御用滞在の命令を無視する形で佐賀に戻った。なお、江藤と同郷の大木喬任は、高木秀臣から江藤出発の報を聞くや、即座に佐賀出身の官吏を3人派遣して強引に江藤を連れ戻そうとしたが、彼らが横浜に着いた時には、すでに江藤が乗船した船は出航した後だった。
主宰(党首)
江藤新平(前参議)
亜者(幹部)
山中一郎(海外留学生)香月経五郎(岩倉使節団通訳・佐賀県中属)朝倉尚武(陸軍少佐)石井貞興(佐賀県大属)山田平蔵(佐賀県中属)中島鼎蔵(左院奉職)西義質(佐賀県大属・陸軍中尉)
憂国党、征韓党の軍事編成
大隊は、勇敢隊、忠奮隊、神速隊、禦侮隊の4大隊で編成。大隊長、監軍、副大隊長、司令、弁事などの役名がみられる。
藩政改革による大隊編成は6個小隊からなるが、1小隊の人員は英式で60人、仏式で80人である。大隊は、524人 - 580人。
小隊長の司令が28人なので、1小隊の60人の場合は1680名、80人の場合は2240人である。
出兵した勢力は、川久保団、武雄団、多久団[注釈 5]、須古団、諫早団である。
当初は15個小隊であったが、25個小隊に増加している。
25個小隊で一小隊の60人の場合は、総兵力1500人になる。
出兵した勢力は、蓮池3小隊、鹿島2小隊、小城3小隊[注釈 6]、川久保1小隊、白石団6小隊、唐津隊[注釈 7]、多久隊、小城隊である。
概要
開戦前
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