東京市外目黒氷川に居を構えた弟の夏樹方に同居し、稲垣足穂、江川宇礼雄も同居した。翌年に父の豊太郎が還暦を迎え、家督を継いだ。「都会の憂鬱」を『婦人公論』に断続連載し始め、高橋新吉を知る。雑誌『月光』の同人となり、『聊斎志異』の翻訳「流謫の神」「碧色の菊」、今古奇観の翻訳「百花村物語」を手がける。中国文学に傾倒し、長期の旅行を計画するが関東大震災や島田清次郎事件のため中止する。1924年(大正13年)に帰郷し、約1年ほど郷里に留まる。
1926年(大正15年)に長谷川幸雄が門人として同居し、谷崎潤一郎と交友関係を復活させる。4月に3年間に長篇を2作ずつ書く約束で、菊池寛、宇野浩二、里見クと共に報知新聞社客員記者となり、中国へ旅行する。10月にかけて魔女事件(山脇雪子)が発生。この頃、富沢有為男を知る。 1927年(昭和2年)に小石川区町(現・文京区関口)の新居に移り、中旬から改造社の講演旅行に加わり九州、北陸方面を廻り、7月に中国旅行を行い、旅行中に芥川龍之介の訃を聞く。帰朝後に『芥川龍之介全集』の編纂にたずさわり、王秀楚の「揚州十日記」を翻訳発表した。『平凡』、『文學』の創刊に携わり、1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当。在職中に現在の同大学校歌を作詞する。翌年に兵庫県武庫郡に移り住むが、軽い脳溢血を病み、病気静養のため下里へ帰郷する。 谷崎潤一郎の妻・千代を、1930年(昭和5年)に譲り受けた。谷崎と千代の離婚成立後、3人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されて反響を呼び起こした。谷崎の『蓼喰ふ蟲』はその経緯を描いたものと思われていたが、実はその前年の、千代を和田六郎(大坪砂男)に譲る件についてのものであることが分かった。 1931年(昭和6年)に雑誌『古東多万
戦前昭和時代
1935年(昭和10年)芥川賞が制定されると選考委員11人のうちの1人となる[2]。また日本文学振興会理事の一人となった。しかし、第1回文芸懇話会賞をめぐって論争し、委員を辞任する。8月に太宰治を知る。翌年に文化学院の文学部長に就任する。1937年(昭和12年)に日本浪曼派の同人となり、7月に新日本文化の会設立に参加し、『新日本』の編纂人となる。翌年5月には文藝春秋社特派員として華北方面に出発し、9月に文学者従軍海軍班の一員として中国に赴く。1940年(昭和15年)初代・花柳寿美のために「八雲起出雲阿国」を書き下ろし、歌舞伎座、帝国劇場で上演。10月に慶應義塾特選塾員となる。
1941年(昭和16年)5月に文藝銃後運動のため、近畿地方に講演旅行。太平洋戦争(大東亜戦争)の文士部隊として中支戦線に従軍し、マレー及びジャワの南方方面へ視察旅行に出る。同年12月24日に大政翼賛会の肝いりで開催された「文学者愛国大会」に参加。会場で詩の朗読を行うなど、時世沿った行動も見られた[3]。
1945年(昭和20年)4月、長野県北佐久郡平根村(現・佐久市)に疎開。その地に1951年(昭和26年)10月まで留まり、「佐久の草笛」をまとめる[4]。
戦後昭和時代佐藤春夫の墓
1946年(昭和21年)から文芸誌『方寸』、『風流』、『群像』、『傳記』、『至上律』の創刊に助力し、翌年から毎年全国各地に旅行に出る。1948年(昭和23年)から日本芸術院会員。水上瀧太郎賞が設定されると選考委員となる。翌年、誕生日を祝う会「春の日の会」第1回を日比谷陶々亭で催され、芥川賞の復活に伴い選考委員となる。慶應義塾大学で「近代日本文学の展望」を開講。この頃日照雨事件が起こる。1950年(昭和25年)宮中歌会始に列席する。『朝日評論』でエドマンド・ブランデンと東西の詩について対談する。