佐藤優_(作家)
[Wikipedia|▼Menu]
当時チェコスロバキアなどの東欧社会主義国は外貨節約のため、国内では流通させたくない神学関係や反共的な書物を、西側諸国の最新の科学技術の書物や辞書・辞典と物々交換していた。その亡命チェコ人古本店主は、その物々交換の窓口であったとされる。そのチェコ人店主は、元々はBBCのチェコ語アナウンサーだったが、引退後は社会主義国から救い出した書籍をアメリカ議会図書館やイギリスの大英博物館大英図書館)、オックスフォード大学ケンブリッジ大学などに納品することで生計を立てていた。妻はケンブリッジ大学でチェコ語の教師をしていた。

1988年から1995年まで、ソビエト連邦の崩壊を挟んで在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、1991年8月クーデターの際、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の生存情報について独自の人脈を駆使し、東京の外務本省に連絡する[5]アメリカ合衆国よりも情報が早く、当時のアメリカ合衆国大統領であるジョージ・H・W・ブッシュに「アメイジング!」と言わしめた。佐藤のロシア人脈は政財界から文化芸術界、マフィアにまで及び、その情報収集能力はアメリカの中央情報局(CIA)からも一目置かれていた[6]。また、参議院議員としてロシアを訪れていた猪木寛至(アントニオ猪木)に便宜を供与したこともあり、その後も親交は続いた。

この時期、佐藤はソ連科学アカデミー(現・ロシア科学アカデミー民族学人類学研究所にも「学位論文提出権有資格者」と認められ、研究員として正式に出入りすることを許されており、市中には出回っていないソ連の民族問題に関する書籍も図書館で自由に読めた。

日本帰任後の1998年には、国際情報局分析第一課主任分析官となる。内閣総理大臣橋本龍太郎ロシア連邦大統領ボリス・エリツィンクラスノヤルスク会談に基づく2000年までの日露平和条約締結に向けて交渉する。また「チェルノムイルジン首相更迭」や「エリツィン大統領辞任と後継者プーチン」等の情報を正式発表前にいち早くつかみ、日本外交政策に貢献した[7]

外務省勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師(弁証法神学)や東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務めた。また、雑誌『世界』(岩波書店)の「世界論壇月評」担当など論壇への寄稿に加え、フロマートカの自伝の翻訳出版(1997年)、『福音と世界』『基督教研究』といった雑誌に執筆するなど、神学方面の学問的活動も行っていた。
鈴木宗男との関係

1991年9月、日本が独立を承認したバルト三国に政府特使として派遣されてきた鈴木宗男の通訳や車の手配などを佐藤が務めたことを機に、鈴木と関係を築く。主任分析官となった背景にも鈴木の威光があったとされる。このとき、鈴木とともに仕事をし、鈴木から「外務省のラスプーチン」というあだ名を付けられたという[1]。「日本のシンドラー」と呼ばれた、リトアニアカウナス総領事としてナチス・ドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人の日本通過を手配した杉原千畝の名誉回復においても、外務政務次官であった鈴木と共に尽力した。しかしこのことが外務省幹部の怒りを買ったという説もある。一般には外務省としては、杉原は訓令違反で退職した元職員であり、名誉回復をさせることは外務省の非を公に認めることにつながるからであるとされる。
逮捕と起訴

2002年平成14年)に、鈴木宗男に絡む疑惑が浮上したことに連座する形で、2月22日外務省大臣官房総務課外交史料館担当課長補佐へ異動[8]。4月に外務省を混乱させたとして、給与20%・1カ月分の懲戒減給を受ける。

同年5月14日に、鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕される。同年7月3日偽計業務妨害容疑で再逮捕。512日に及ぶ東京拘置所での勾留後、2003年(平成15年)10月に保釈された[9]。東京拘置所収監時、死刑囚坂口弘の隣の独房に入ったことがある[10]

佐藤は以下の罪で、東京地方検察庁により起訴された。
支援委員会をめぐる背任

2000年1月、
テルアビブ大学教授ガブリエル・ゴロデツキー夫妻を、イスラエルから日本に招待した際

同年4月、テルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に、7名の民間の学者と外務省から6人のメンバーを派遣した際

この2回の費用を、外務省の支援委員会から違法に引き出して支払った疑いである。この疑いに対し佐藤は、支援委員会から支払をすることは、通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった、と主張している。また、佐藤の上司だった外務省欧亜局長東郷和彦は、「外務省が組織として実行しており、佐藤被告が罪に問われることはあり得ない」と証言している。

そして東郷は、佐藤が逮捕された時は海外にいたが、事務次官野上義二と電話で「こんなことが犯罪になるはずがない。何も問題はない」と話し、しかも、野上はこのことを記者会見で述べるとまで語ったと、佐藤の著書には書かれている[11]
北方領土支援にからむ偽計業務妨害

2000年3月に行われた、国後島におけるディーゼル発電機供用事業の入札で、鈴木の意向を受け、三井物産が落札するように違法な便宜を図ったり、支援委員会の業務を妨害したりしたとの疑いである。この疑いに対し佐藤は、北方領土の事情に通じた三井物産の選定は妥当であり、鈴木の「三井に受注されればいい」との発言を三井側に伝えただけだ、と主張している。

もしこれらの便宜を図っていたら、佐藤の国家公務員生命を脅かすような事態で、非常にリスクが高いが、三井物産から佐藤へは金品の授受は一切なかった。そのことは検察官も認めており「動機なき犯罪」になる。
有罪判決の確定と失職

2005年2月に東京地方裁判所安井久治裁判長)で執行猶予付き有罪判決(懲役2年6か月、執行猶予4年)を受け控訴していたが、2007年1月31日、二審の東京高等裁判所高橋省吾裁判長)は一審の地裁判決を支持し、控訴を棄却。最高裁判所第三小法廷(那須弘平裁判長)は2009年6月30日付で上告を棄却し、期限の7月6日までに異議申し立てをしなかったため、判決が確定した[12]国家公務員法76条では「禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又は執行を受けることがなくなるまでの者」は失職すると定められており、これにより外務省職員として失職した。懲戒免職諭旨免職ではなく「失職」となるケースは、逮捕された公務員の退職理由としては異例である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:123 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef