佐藤信淵
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阿波国で暮らしたのは2年足らずで、江戸京橋柳町に戻り、そののち大豆谷村に引きこもって著述の生活に入った[2][5]

野心家であった信淵は、実際には牢人の身であり、それゆえ仕官を強く望んでいたが、なかなかその望みはかなえられなかった[5]。好奇心の強い信淵は、多種多様な知識を誇ってはいたが、どの分野の知識も専門家と呼ぶには中途半端であり、本業であるはずの医学に関してもみるべき著作はなく、また、信淵が称するところの佐藤家の家学(天文地理鉱山土木兵学など)も個別にみるならば先人の説の受け売りという水準を大きく越えるものではない[5]。しかし、反面では実に幅広く各分野の諸知識を吸収・消化して自らのものにしていったことも確かであり、こうした知識の幅がときに時代の潮流や転換点を鋭敏につかみとらせる原因になっているように思われる。

45歳のころ、信淵は再び江戸に移り、幕府神道方の吉川源十郎に入門して神道を学び、文化10年(1813年)には47歳にして平田篤胤気吹舎に入門して国学を学んでいる[2][5]。この平田国学との出会いが信淵の学問に国粋主義的性格を色濃くもたせることとなった[5]

文化11年(1814年)、神道問題で罪を負い、江戸所払いとなったが、なおも平田塾などに往来して禁を破ったため、天保3年(1832年)には江戸十里四方お構いとなり、武蔵国鹿手袋村(現埼玉県さいたま市南区)に蟄居した[2]。しかし、この間、文政年間には大豆谷で『宇内混同秘策』『天柱記』『経済要録』を著し、鹿手袋では、天保年間に『農政本論』『内洋経緯記』を著しており、その声望はおおいに高まって宇和島藩薩摩藩からは出入りを許されている[2]。ただし、基本的には牢人身分であったところから、生活は困窮していたものと思われる[5]

天保10年(1839年)には親交のあった渡辺崋山高野長英小関三英とともに蛮社の獄連座したものの、わずかに罪を免れている[2]。翌天保11年(1840年)、綾部藩の藩主九鬼隆都に招かれて勧農策を講じた[2]。やがて、かれの学識は老中首座であった水野忠邦の買うところとなり、その罪も許されて、忠邦の諮問に応ずるために『復古法概言』を著した(弘化2年(1845年)刊行)[2]。信淵は幕府専売制ともいうべき「復古法」を実施し、流通を幕府の手によって直接統制し、流通過程への徴税による富国策を提示したが、忠邦の失脚によって実現しなかった[2][8]。信淵はまた、全国各地のに招かれて、政治、経済、産業等さまざまな分野にわたって講演している[1]

信淵は、「自分の学説は今の世に認められなくても、後世すぐれた君主があらわれれば必ずやわが家学をもって天下を一新することになるだろう」と述べ、生涯にわたって著述をつづけたが、嘉永3年(1850年)正月6日、病によって江戸で永眠した[1]。82歳。墓は浅草松応寺(現在は杉並区高円寺南2-29に移転)。故郷の西馬音内の宝泉寺東郷平八郎揮毫の「佐藤五代碑」がある[3][9]
親族

妻は初め笹原氏。のちの渡辺氏は4男2女を産んだ[3]。嫡男は佐藤信照(昇庵)である[3]
年譜

明和6年(1769年) - 出羽国雄勝郡で生まれる。

天明 - 寛政年間 - 諸国を遍歴する。

天明元年(
1781年) - 蝦夷地に渡る。

天明4年(1784年) - 日光・足尾鉱山おとずれる。父が客死。宇田川玄随に入門。

天明5年(1785年) - 津山訪問。西国を遊歴。

寛政元年(1789年) - 一時帰郷。


寛政4年(1792年) - 江戸京橋柳町にて医業を始める。

寛政5年(1793年) - 最初の妻をむかえる。

寛政6年(1794年) - 母を江戸に呼び寄せる。

寛政9年(1797年) - 母死去。上総国山辺郡大豆谷村に潜居。

文化4年(1807年) - 徳島藩に仕官。2年足らずで江戸に戻る。以後、大豆谷に戻る。

文化8年(1811年)ころ - 江戸日本橋富沢町で医業を営む。吉川源十郎に入門。

文化10年(1813年) - 平田篤胤に入門。

文化11年(1814年) - 医業廃業。吉川源十郎一件に連座して入牢。江戸所払いにより、下総国船橋大神宮(現千葉県船橋市)に移る。

文化14年(1817年) - 大豆谷村に移る。

文政6年(1823年) - 『宇内混同秘策』を著す。

文政8年(1825年) - 『天柱記』を著す。

文政10年(1827年)- 『経済要録』を著す。

天保3年(1832年) - 江戸所払いにより、武蔵国鹿手袋村に移る。『農政本論』を著す。

天保4年(1833年) - 『内洋経緯記』を著す。

天保10年(1839年) - 蛮社の獄に連座したが、罪は免れた。

天保11年(1840年) - 綾部藩主九鬼氏に招かれて勧農策を講じる。

天保12年(1841年) - 盛岡藩に仕官。

嘉永2年(1849年) - 江戸払いを赦免される。

嘉永3年(1850年) - 死去。

明治15年(1882年) - 朝廷から正五位を追贈される。

明治42年(1909年) - 秋田市の平田神社に平田篤胤とともに合祀される。平田神社は「彌高神社」に改称される。

思想と主要著書
思想

佐藤信淵の著作は300部8,000巻に及ぶとされているが、必ずしも全ては伝わっていない[1]。また、生存中は彼の著作は広くは知られておらず、読者も限られていた[1]。書名に「秘策」「秘録」を付すものが多いのも、公にできない性格をもっていたからであった[1]。広く読まれるようになったのは明治以降であり、主なものは滝本誠一編『佐藤信淵家学全集』にまとめられている[2]。その著作はきわめて多種多様で、農学から兵学、兵器製造、経済、社会政策、教育行政、さらに国家経営におよび、きわめて実際的なものから理論的、観念的なものまで含んでいる[2]。そのなかのひとつ、文政12年(1829年)成立の『草木六部耕種法』は有用植物の利用対象を、・皮・の六部に分け、それぞれに属する植物の栽培法を解説するというもので、この書によって信淵は、宮崎安貞大蔵永常と並ぶ「江戸時代の三大農学者」と称せられている[10][11][注釈 1]


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