佐竹義舜
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

永正10年(1513年)8月には、茂木持知に対し山内郷、小深郷(現在の栃木県茂木町)をあてがい[5]小田氏庶流である茂木氏を佐竹家臣団に組み込み下野国への進出に成功。さらに宇都宮家中に属している武茂氏(宇都宮一門)や松野氏(宇都宮一門)にも影響を与えた。武茂氏や松野氏は後に宇都宮氏から離れ佐竹氏の影響下に降ることになるがその時期は天文年間であり、次代の義篤義昭父子の頃である[6]
宇都宮成綱との戦い「竹林の戦い」および「縄釣の戦い」も参照

永正11年(1514年)には足利政氏の命で、岩城由隆とともに2万の軍勢で下野を攻めた。下野戦国大名宇都宮成綱による古河公方擁立を阻止するためだけでなく、佐竹氏宇都宮氏の北関東の覇権を巡る戦いでもあった。那須口で成綱の名代で出陣した宇都宮忠綱の軍勢を破り(那須口の戦い)、追撃するが竹林の地で宇都宮成綱の軍勢と結城政朝の軍勢に敗れ兵を引き上げた(竹林の戦い)。合戦で敗北後、しばらくの間は足利政氏と連絡をとることが困難な状態に陥ってしまった。

永正13年(1516年)に、再び宇都宮氏を討つために岩城由隆とともに大軍を率いて下野を攻め、下野国上那須庄浄法寺縄釣で合戦するが、宇都宮成綱の調略によって那須氏が寝返ってしまったために不利になり敗北。兵を引き上げるが宇都宮成綱は義舜を追撃し、宇都宮氏常陸国侵攻を許してしまうが、常陸国月居城でなんとか成綱の追撃から振り切ることに成功したが、大きな被害を出してしまった。

永正14年(1517年)3月13日に死去。享年48。庶長子の今宮永義(ながよし)は前述の今宮氏を継いだため、次男(嫡男)の義篤が跡を継いだ。
脚注[脚注の使い方]^ a b 庶長子。僧となり、後に久慈郡今宮白羽社別当である今宮家を創始。今宮道義らを輩出した。
^ 原武男『新編佐竹氏系図』加賀谷書店 (1973)
^ 庶兄周義の養子。出家した後に還俗。
^ 幼くして出家。一桂とも。後に還俗して一渓齋を名乗り、古内氏の祖。
^ 「富岡家古文書」『群馬』2207号
^ 荒川善夫 著『戦国期東国の権力構造』(岩田書院、2002年)P325 - P326

参考文献

堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 佐竹氏」『寛政重修諸家譜』。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577323/35 国立国会図書館デジタルコレクション。 

七宮A三『常陸・秋田佐竹一族 新装版』










佐竹氏第15代当主(1490年 - 1517年)
宗家

昌義

隆義

秀義

義重

長義

義胤

行義

貞義

義篤

義宣

義盛

義人

義俊

義治

義舜

義篤

義昭

義重

義宣

義隆

義処

義格

義峯

義真

義明

義敦

義和

義厚

義睦

義堯

義脩

義堯(再襲)

義生


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef