佐倉市
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気温(°C)
総降水量(mm)
出典:[1]

インペリアル換算
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  2 4829  2.2 4930  4.4 5436  4.4 6446  4.4 7256  5.7 7663  5.1 8269  4.2 8672  7.9 7966  6.1 7054  3.7 6143  1.5 5332
気温(°F)
総降水量(in)

佐倉(1991年 - 2020年)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)19.0
(66.2)24.3
(75.7)25.6
(78.1)29.2
(84.6)33.9
(93)36.6
(97.9)37.8
(100)39.1
(102.4)35.4
(95.7)32.2
(90)28.1
(82.6)23.9
(75)39.1
(102.4)
平均最高気温 °C (°F)9.6
(49.3)10.4
(50.7)13.7
(56.7)18.8
(65.8)23.2
(73.8)25.8
(78.4)29.8
(85.6)31.2
(88.2)27.3
(81.1)21.9
(71.4)16.8
(62.2)11.9
(53.4)20.0
(68)
日平均気温 °C (°F)3.7
(38.7)4.8
(40.6)8.3
(46.9)13.4
(56.1)18.1
(64.6)21.3
(70.3)25.1
(77.2)26.3
(79.3)22.7
(72.9)17.1
(62.8)11.2
(52.2)6.0
(42.8)14.8
(58.6)
平均最低気温 °C (°F)?1.8
(28.8)?0.7
(30.7)2.8
(37)7.9
(46.2)13.5
(56.3)17.6
(63.7)21.5
(70.7)22.6
(72.7)19.0
(66.2)12.9
(55.2)6.2
(43.2)0.5
(32.9)10.2
(50.4)
最低気温記録 °C (°F)?12.7
(9.1)?9.5
(14.9)?5.3
(22.5)?2.3
(27.9)3.6
(38.5)9.8
(49.6)13.5
(56.3)15.4
(59.7)7.2
(45)?0.4
(31.3)?3.9
(25)?7.2
(19)?12.7
(9.1)
降水量 mm (inch)65.9
(2.594)57.8
(2.276)109.2
(4.299)112.9
(4.445)127.4
(5.016)148.6
(5.85)140.1
(5.516)109.1
(4.295)206.5
(8.13)223.3
(8.791)95.8
(3.772)56.0
(2.205)1,455.9
(57.319)
平均降水日数 (?1.0 mm)5.86.410.410.410.711.710.38.011.010.98.36.1109.4
平均月間日照時間189.5169.7170.2180.1179.4128.2162.0191.4135.1132.1146.8171.51,956
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[8]

隣接している自治体・行政区

千葉市花見川区若葉区

八千代市

四街道市

八街市

印西市

印旛郡酒々井町

歴史佐倉城を築城させた土井利勝

市内中央部の江原台には、日本考古学草創期に注目を集めた遺跡があり、東端には、白鳳期の長熊廃寺跡が残る[9][注 2]印旛沼を中心に、多くの原始古代遺跡がある。

鎌倉時代室町時代を通じて下総守護として発展した下総千葉氏は、戦国時代になると本佐倉城(国の史跡、現・酒々井町本佐倉)を拠点とし、ここに佐倉千葉氏が成立した。戦国時代末期になると後北条氏の配下となり安房里見氏の侵攻に対抗している。千葉親胤は鹿島城(のちの佐倉城)の建立に着手するが暗殺され、一族の鹿島幹胤が引き継ぐも建設途上で死去。完成を目指した千葉邦胤は家臣に殺害される。後北条氏豊臣秀吉小田原征伐で滅亡すると、鹿島城は建設途上で焼かれ、千葉氏も滅亡してしまう。その後近くの臼井城徳川四天王の一人酒井忠次の息子である酒井家次が(臼井藩、後に佐倉藩領に編入)、同じく弥富城には北条氏一族の北条氏勝が(岩富藩、後に転封により収公)入城している。

江戸時代初期には土井利勝が鹿島城を改造して佐倉城を築き、その後、堀田氏の居城となり、老中首座となった堀田正亮が11万石とし、佐倉は城下町として繁栄した。佐倉藩は、武田(徳川)家、松平家等、老中や大老となる幕閣の中心人物が入封する重要な藩であった。江戸から佐倉城までは佐倉街道が整備され、市川宿・船橋宿・大和田宿(八千代市)・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より成田街道という愛称で呼ばれるようになった。幕末の老中堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然に佐倉順天堂(現・千葉県指定史跡佐倉順天堂)を開かせた。また、「西の長崎、東の佐倉」として西洋医学の街としても栄えた[5]。現在では、国道296号(新町周辺のみ)を通称蘭学通りとして、その名を残している。1871年(明治4年)7月15日廃藩置県により佐倉県が置かれ、同年11月13日に佐倉県は印旛県と改められた。また1873年(明治6年)に城跡に軍隊(佐倉連隊)がおかれた。


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