佐々木剛
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その後、離婚やホームレス生活を経験し、酒を飲んで暴れたり、一日中パチンコ屋に入り浸るなど、稼いだ金をその日のうちに使い切るような荒んだ生活を送るようになる[12]

1991年には新国劇時代からの親友・石橋正次をはじめ俳優仲間の支援で、舞台『会津士魂外伝・山本覚馬』にて俳優業への復帰を果たす[15]。この際、長年のブランクのプレッシャーから、「舞台直前に逃げ出したこともあった」と後年告白しているが、これに対して石橋は「怖いと思うのが普通だ」と励まし、無事に務め上げたという。その後は1998年1月まで日光江戸村に所属俳優の演技師範代として在籍し、常設舞台での芝居と並行して若手の指導にあたった[15]

その後は、年齢を重ねた押し出しの強い風貌を武器に舞台を中心に俳優活動を展開している。

2011年、映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』で仮面ライダー2号の声を担当。映像作品で2号を演じるのは、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』以来27年ぶりとなった。

2012年、「自分を支えてくれたファンや芝居仲間のため」として、東京都板橋区大山東町に居酒屋「バッタもん」を開業。実質名義貸しのようなタレント不在の店ではなく、佐々木主宰で店に常駐して自ら酒肴を調理し、一人で店を切り盛りしている。

2016年5月7日、69歳の誕生日に再婚した[2]
人物

最初の芸名「八代悠」は、師匠の高垣葵から命名され、その後のNHK番組への出演は彼の紹介によるものだった。「佐々木剛」の芸名は、『柔道一直線』への出演が決まった際に「名前だけは強そうにしよう」として「桜木健一のライバル」という設定にちなみ、東映の企画部長だった渡邊亮徳が宮本武蔵のライバルである佐々木小次郎から、「佐々木」の姓をつけた。また、名前の「剛」の読みは「ごう」にしようとしたが、「同じ事務所に若林豪がいるので紛らわしい」との理由から、「たけし」に決めた[3]

柔道初段[6]空手初段。左利き[16]。小さいころは身体が弱く、中学時代より空手や柔道などに励んでいた[16]

1976年の『宇宙鉄人キョーダイン』の葉山竜治 / グランゼル役は配役がクランクイン直前になっても決まらず、「佐々木なら良いのではないか」という意見が出たため、決まった[12]

1982年の自宅の火事で重傷を負った際、入院費は俳優仲間で友人の林隆三渡辺篤史らが工面してくれたが、自身には貯蓄がなかったため、手術費、火元が自宅アパートゆえの修理費、妻や3人の子供たち[注釈 1]の生活費といった各種費用を工面すべく、警備員ちり紙交換、竿竹売り、石焼き芋屋などを掛け持ちし、1日16時間も働く毎日だったと語っている[注釈 2]。しかし、結局は妻子と別れることになり、世の中のすべてから見放された気持ちだったという[注釈 3]。この間、親族や関係者とも連絡を断っていたため、父の葬儀にも参列できなかった。

1991年には「佐々木とは家族ぐるみで30年来の親友」という石橋正次の呼びかけで舞台復帰したが、これについては子供時代に『仮面ライダー』を観ていたファンと接したことで、その熱い視線に対して「このまま役者を辞めるのはファンに対して失礼だ」と考えるようになり、ファンを裏切らない生き方をしようと決意したことも復帰の原動力であったと語っている[10]

顔面の火傷については、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』に仮面ライダー2号役の声優として出演した時点でもまだ、旧知の平山亨らに佐々木だと気づかれないほどの状態であったが[11]、長年の皮膚移植治療でかなり回復している。佐々木は「おかげで本当に改造人間になってしまった気分」と語る一方、「火傷による挫折と復帰で、それまでの自分を大いに反省した」と述懐している。

歌手としてシングル盤2枚をリリースしている。また、アルバム『石ノ森章太郎・男も泣けるTV主題歌集』(1998年)には佐々木の歌う『仮面ライダー』主題歌「レッツゴー!!ライダーキック」が収録されているほか、「好きな言葉」として、「我が幸福は今…夢の途上」と書き記している。
仮面ライダーシリーズのエピソード
『仮面ライダー』でのエピソード

佐々木は番組途中からの参加で、主演の藤岡弘が放送開始前の撮影中の事故で出演不可能となったための緊急登板による主役交代だった。藤岡と佐々木は劇団NLT時代の同期で、友人の間柄だったため、当初出演依頼を「彼の役を取りたくない」との理由から一度断っている[16][10][11]

しかし『柔道一直線』に出演させてもらった恩を返そうと思い直し、東映プロデューサーの平山亨と「藤岡が帰って来るまで」との約束を交わした上で『仮面ライダー』出演を承諾した佐々木だが、当時はそれ以外にも2本のドラマのレギュラー(うち1本は大阪での撮影)を務めていたため、佐々木が『仮面ライダー』のために割ける時間は少なかった[16][10][11][19]。そのプレッシャーから一時期円形脱毛を発症し、それをカムフラージュするためカツラを被って殺陣に臨んだが[11]、ジャンプなどでカツラがずれてしまうため、やがてカツラの上にヘルメットを被るようになった。一文字隼人にヘルメットや帽子着用のシーンが多かったのはこれが理由である[16]。『仮面ライダー』が人気番組となり、『お荷物小荷物』でも劇中で「変身ポーズ」をとるシーンが挿入されたが、佐々木はのちに「他の番組で変身ポーズをとるのは照れくさくて嫌だった」と語っている[10]

多忙な当時は、一文字のカットを先に撮って変身後は後まわしにしたり、録音はアフレコだったため変身ポーズをとりながら「お疲れさま」と言ってジャンプしたこともある[20]。撮影開始当時、自動二輪の免許を持っていなかったため、本郷猛と同じようにバイクに乗ってベルトに風を受けて変身するシーンの撮影ができない問題があった[10]。バイクに乗るシーンは苦肉の策としてトラックの荷台に固定してそれにまたがっての撮影となったが[16][11]、『仮面ライダー』の撮影中に免許を取得し、バイクの上にうつ伏せになって運転する「飛行機乗り」を披露している。本編に使われたOKテイクの変身ポーズも、本来なら上着からベルトを出して変身ポーズを取るところを変身ポーズの途中にベルトを出すという不自然なものになっている。このことについて、佐々木は「お見せしよう!と言ってもベルトが見えていないんだから(笑)。今なら絶対NGになるはずですけど、当時は予算がなくてフィルム代がもったいないからOKになったんでしょうね(苦笑)」と語っているが[21]、1998年のインタビューでは「撮影直前までちゃんと決まっていなかった」と述べている[16]

その後、藤岡が主役復帰した際にスタッフから「是非ダブルライダーで引き続き主演を」と依頼されるも、「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、当然、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは、彼が付録のようになってしまう」と、これを固辞し、当初の約束を守り3月をもって主役を降板した[11][19]

初期の仮面ライダー1号は藤岡弘がスーツアクターも務めていたが、藤岡の負傷降板により2号からは大野剣友会がスーツアクターを担当している。しかし佐々木は『柔道一直線』で撮影を共にした剣友会の苦労を知るためとして、初期数話で2号のスーツアクターを務めている[11]。この時の演技では『素浪人 天下太平』でも用いた左手での剣技を披露している[11][16]。佐々木は自身でも大変さを実感したことによって剣友会のメンバーに対して感謝の気持ちで後を託すことができるようになったという[11]。『仮面ライダー』でスーツアクターや擬斗を担当した岡田勝は、『仮面ライダーZX』までの主演俳優の中では佐々木の立ち回りが一番上手かったと評価しており、仮面ライダーの立ち回りもやらせたかったと述べている[22]
後年の活動

その後も「仮面ライダーシリーズ」に一文字隼人役で多く出演している。仮面ライダーのオファーを断ったことがない理由として、気心が知れたスタッフと会えるのが嬉しかったためと述べている[23]

仮面ライダーシリーズの映像作品への出演は1984年のテレビスペシャル以降途絶えていたが、2003年にはゲーム『仮面ライダー 正義の系譜』で十数年ぶりに2号 / 一文字の声を担当した。

近年では、仮面ライダー関係のイベントに出演する機会も増えてきており、2009年公開の映画『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』製作発表時にはビデオメッセージを送っている。


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