佐々成政
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注釈^ ただし、家康は成政を見捨てた訳では無く、富山の役の最中に羽柴方についていた信濃国の真田昌幸を攻撃している(第一次上田合戦)のは、秀吉を牽制して成政を救う意図があったとする指摘もある[30][31]
^ 53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる[42]。また、天文年間誕生説は17世紀後期になって初めて出現したのに対し、永正年間説は林羅山が編纂した『豊臣秀吉譜』や加賀藩士関屋政春の覚書を甥の有沢武貞が整理した『政春古兵談』が採用していることに注意すべきとする指摘もある。前者は成政死去時は6歳ではあるものの時代的に大きく離れておらず、後者は成政没後の生まれであるが成政旧臣が多く仕えていた加賀藩の家臣で、成政を直接知る者と面識があった可能性があるからである[43]

出典^ 花ヶ前 2002, p. 11, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ 「とやま城郭カード第二弾が完成しました!」砺波市公式HP
^ 「とやま城郭カード一覧(第二弾)」砺波市公式HP
^ 花ヶ前 2002, p. 10, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ 花ヶ前 2002, p. 72, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
^ 花ヶ前 2002, p. 16, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ 花ヶ前 2002, p. 17, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ 花ヶ前 2002, p. 74, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
^ 花ヶ前 2002, p. 18, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ 花ヶ前 2002, p. 20, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ 萩原、2023年、P10・434-436.
^ 花ヶ前 2002, p. 77, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
^ 『富山県史』通史編V 近世上、1980年
^ 荻原、2023年、P15-16・438.
^ 花ヶ前 2002, p. 109, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
^ 荻原、2023年、P440.
^ 浅野清 編著『佐々成政関係文書』新人物往来社、1994年。 
^ 花ヶ前 2002, p. 146, 池田こういち「佐々成政の越中支配」.
^ 木越隆三『織豊期検地と石高の研究』桂書房、2000年。 
^ 萩原、2023年、P17-19.
^ 花ヶ前 2002, p. 113, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
^ 花ヶ前 2002, p. 32, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
^ a b c d 佐伯哲也「天正十二・三年における佐々成政の動向について―新紹介の村上義長と某宗句の書状を中心として―」『富山史壇』第148号、2005年。 
^ a b c 鈴木景二「佐々成政の浜松行き道筋試案―有沢永貞『雑録追加』所収文書を手がかりに―」『富山史壇』第154号、2008年。 
^ 遠藤和子『佐々成政』サイマル出版会、1986年。 
^ 天正12年6月7日付前田利家宛羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』2、1102号)
^ 天正12年3月29日付羽柴秀吉宛丹羽長秀書状(『大日本史料』11-6、P416.)
^ 天正12年7月6日付羽柴秀吉宛羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』2、1132号)

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