住友家
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実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に入れ替わった。

(男系系図:東山天皇閑院宮直仁親王鷹司輔平鷹司政煕鷹司政通徳大寺公純住友友純

住友友純は、友親の長女・満寿との間に4男1女(2男は早世[注釈 1])をもうけたが、長男の寛一は経営に興味を示さず、芸術方面に傾倒したために廃嫡となり、三男の厚が16代目吉左衛門友成として住友家を継いだ。

友成は元・東宮職御用掛の西園寺八郎(西園寺公望の女婿・公爵毛利元徳の8男)の次女春子と結婚した。夫妻は2女をもうけ、長女邦子は侯爵佐々木行忠の長男行美(東京大学理学部教授)に嫁いでいる[1][2]。行忠は1942年(昭和17年)に皇典講究所長、國學院大學長にあげられ、さらに国史編修院総裁を経て、1946年(昭和21年)に東京大神宮宮司1951年(昭和26年)には伊勢神宮大宮司に就任した国史の大家。なお、行忠の祖父高行は枢密顧問官で明宮(大正天皇)の御教養主任だった。次女博子は、昭和電工元・社長・安西正夫の次男直之(三井不動産)に嫁いた。直之の孝之(元昭和エンジニアリング社長)は元・日清製粉(現・日清製粉グループ本社)社長正田英三郎の次女恵美子と結婚した。正田の長女が上皇后美智子であるので、住友家は安西家・正田家を通じて皇室と姻戚関係にある。直之の妹公子を娶ったのが住友銀行相談役堀田庄三の長男健介(住友銀行)であるから、住友家評議員会の前・委員長の堀田庄三は住友家の相談役、総理事格から住友家と閨閥でつながった。なお西園寺八郎の三男・西園寺不二男鮎川義介の長女を娶り、日産コンツェルン傘下の日産興業社長に就いている。元・参議院議員の西園寺公一は八郎の長男であり、春子や不二男の長兄にあたる。

住友友成の姉の孝は、旧・壬生藩三万石の藩主鳥居忠文子爵三男・忠輝(元・住友本社取締役)を婿養子に迎えており住友忠輝と改名した。住友元夫は、やはり旧小浜藩十万四千石の藩主酒井忠克(さかいただたえ)伯爵の七女・寿枝子を娶っている。寿枝子の三姉・香枝子(酒井忠克の三女)は、旧高松藩主の末裔で旧・伯爵の松平頼明(まつだいらよりひろ、本郷学園理事)に嫁いでいる。また寿枝子の次姉・小枝子(酒井忠克の次女)は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫・精一郎に嫁ぎ[3][4]、精一郎・小枝子夫妻の長女・由利子(寿枝子や香枝子の姪にあたる)は地球科学者理学博士鎮西清高京都大学名誉教授、専門は地質学古生物学)に嫁いでいる[3]。また、鎮西と同じく地球科学者で理学博士の岩崎泰頴(岩崎弥太郎の曾孫で熊本大学名誉教授、専門も鎮西と同じく地質学・古生物学)は岩崎精一郎・小枝子夫妻の長男で、由利子の兄にあたる[3][4][注釈 2]

友成の兄の住友寛一は、1896年(明治29年)5月23日生まれ。前述のとおり若くして絵画に傾倒したため廃嫡され、以後画家・美術品収集家として過ごし、岸田劉生とも交流を持った。泉屋博古館所蔵の中国書画のほとんどは寛一のコレクションである。また鎌倉市の景観重要建築物「村上邸」の茶室は、鎌倉にあった寛一邸から移築したものである。皆川宗光の娘との間に4男2女をもうけた。長男の住友務は、元住友ビジネスコンサルティングと住友オーストラリア開発の会長を歴任した。住友務の長男進(日本電気)の妻揺子は東曹産業社長岩瀬徳郎の二女。岩瀬徳郎の父徳三郎は、元東洋曹達工業社長である。岩瀬徳郎の長女は、キッコーマン醤油一族である11代茂木七左衛門の養子賢三郎に嫁いでいる。また、住友務の妹文子は、元ミツワ石鹸社長の三輪善雄に嫁いでいるが、善雄の妹の佐登子は、元キッコーマン醤油10代社長茂木佐平治に嫁いでいるので、当主吉左衛門の兄である住友寛一一族は、茂木一族と二重結合の閨閥関係にある。住友務の弟勝は、元・関東電工会長の浅野八郎の娘桃枝を娶っている。浅野八郎は浅野財閥二代目総帥浅野総一郎の三男である。二代目総一郎の妻千代子は、自由民権運動の政治家・板垣退助の娘である。

当主の弟の住友元夫は、1912年(明治45年)1月1日生まれ[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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