伽耶
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倭国と高句麗の戦争詳細は「好太王碑」、「三韓征伐」、および「倭・倭人関連の朝鮮文献」を参照

4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[12]393年には倭が新羅の王都を包囲する[13]三国史記では397年、百済が倭国に阿?王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[13]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[12]400年には倭が新羅の王都を攻撃していた[12]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅の従抜城に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[12]三国史記では402年、新羅も倭国に奈勿尼師今の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界(帯方郡との境)にまで倭が攻め込んでいる[12]

405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。このように倭本国の朝鮮半島に対する影響力は強大であった。なお三国史記では、この時期の加羅に関する直接的記述は空白となっている。

日本書紀では、249年もしくは369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自?(ひじほ)、南加羅(ありひしのから)、?国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。
後期伽耶連盟

韓国の学者金泰植は5世紀後半以降、大加耶国を中心とした諸国の連合体(後期伽耶連盟)の存在を想定した。日本の学者田中俊明は金の研究を受けつつ、加羅諸国の連合体の実態の研究を進め、実際に連盟を構成していたのは大加耶を中心としたより狭い範囲の諸国であることを論じている(大加耶連盟)。こうした連盟体の存在を手がかりとして想定した研究は加羅諸国の動向についての研究に大きな影響を与えたが、韓国の学者白承玉は連盟を形成したのは一時的なもので、諸国はその歴史の大部分は別個の存在として存在したのであり、より地域国家的な視点が必要であると主張している。

新羅は5世紀中頃に高句麗の駐留軍を全滅させ、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済の首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させると、百済は南下して統一された国の存在しない朝鮮半島南西部への進出を活発化させた。統合されて間もない新羅は、この機に乗じ秋風嶺を越えて西方に進出するなど、半島情勢は大きく変化した。 5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する小国群は自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成したという説がある。479年南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている[14]

大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附属する?貊[15] の新羅侵入に対して、百済と共に援兵を送った。百済がに対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させると、加羅諸国は百済と小白山脈を境界として接し険悪になった。百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を願ったが叛服常ない新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返し、532年には任那の金官国が新羅に降伏した。この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して任那加羅諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に任那加羅諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた。こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると新羅の優勢は決定的となり、562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る任那加羅諸国は新羅に併合された[16]
加羅諸国
金官国(駕洛国)

金官国、もしくは駕洛国・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衡王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた)。金仇亥の曾孫に金?信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官国の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。ただし、『三国史記』『金?信列伝』によれば、金?信は首露王を祖先とする12世孫であり、金?信碑には、その祖先は黄帝の子の少昊金天氏の後裔であり、そのため金氏を名乗っていたとする[註釈 1]

駕洛国の歴代王については、朝鮮の君主一覧を参照。
大加羅

金官国もまた大加羅(大駕洛)と称されていたように、大加羅の表現そのものは固有名詞ではなく、加羅諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡[17])が、一般的には大加羅を指すものと考えられている。『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽?山の神である正見母主と天神『夷?訶之』とから生まれた兄『伊珍阿?』(悩窒朱日?内珍朱智)が大加羅の始祖、弟『悩窒青裔』(首露王)が金官国の始祖であるとしており、新興の大加羅がそれまでの盟主であった金官国を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。

田中俊明は、『南斉書』に見える加羅国王荷知は高霊の加羅王嘉悉王に当たると主張している。

大加羅の歴代王については、朝鮮の君主一覧#大加耶(高霊伽耶)を参照。
その他の諸国

伽耶連盟の盟主となったとする人もいる、金官国・大加羅(伴跛)だけではなく、安羅加羅(慶尚南道咸安郡)、古寧加羅(慶尚北道尚州市咸昌)、星山加羅(慶尚北道星州郡)、小加羅(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれることがあった。それ以外での小国としては、多羅(慶尚南道陜川郡)、卓淳(慶尚南道昌原市[18])、己?(全羅北道南原市)、滞沙(慶尚南道河東郡)等が挙げられる。

これらの地域からは前方後円墳が発見されており、日本の墓制との関連で注目されている[19]。(→後述
アヨーディヤーとの関連

三国遺事』をはじめとする朝鮮史書では、金官国の初代首露王の妃は、阿踰陀国サータヴァーハナ朝)人の許黄玉であり、第2代居登王の妃も許黄玉についてきた泉府卿申輔の娘の慕貞であり、第3代麻品王の妃も許黄玉についてきた宗正監趙匡の孫娘の好仇である。1892年林泰輔が執筆した『朝鮮史』では、首露王と夫人の許皇后がインド人で、インドから朝鮮南部にきたことを論述したが[20]、これは「考証がかなり煩雑しているので、他日を期してこれを詳論する」と述べ[21]、後日論文「加羅の起源」と「加羅の起源続考」において詳論した。「加羅の起源」では、仏書に散見される同様の事実を例に挙げることから論じ始め、『駕洛国記』に記された天竺阿踰陀国の王女許氏を根拠にして、加羅はインド人が切り開いたとする[20]。「加羅の起源続考」では、朝鮮古代卵の史籍(赫居世居西干鄒牟王首露王・五伽耶王・脱解尼師今)と、インド古代の卵の史籍(『賢愚因緑経』・『法苑珠林』・『唐書南蛮伝』・『大越史記全書』・『山海経大荒南経』・『大明一統志』・『博物志(中国語: 博物志 (張華))』・『後漢書』 )を比較して、その類似性を取り上げ、「古代にインド人が馬剌加海峡を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に加羅国を開いた」とする[22]


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