伯爵
[Wikipedia|▼Menu]
皇族の臣籍降下による伯爵家

叙爵内規上では皇族の臣籍降下に伴って与えられる爵位は公爵となっているが、実際には侯爵または伯爵だった。時期によって叙爵方針に差異が存在する。皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。上野家と二荒家は北白川宮能久親王落胤だったため皇籍に入れることはできなかったが、臣籍降下後の伯爵叙爵を実質的前倒しにする形で幼少期に伯爵に叙されている。皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。

伏見宮系 - 清棲家清棲家教)、伏見家伏見博英

北白川宮系 - 上野家上野正雄)、二荒家二荒芳之

山階宮系 - 鹿島家鹿島萩麿)、葛城家葛城茂麿

久邇宮系(多嘉王家含む) - 東伏見家東伏見邦英)、宇治家宇治家彦)、龍田家龍田徳彦

旧公家の伯爵家

叙爵内規では旧公家華族から伯爵になる者について「大納言迄宣任ノ例多キ旧堂上」と定められている。「大納言迄宣任ノ例多キ」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家[注釈 1]」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家[注釈 2]」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家[注釈 3]」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家[注釈 4]」のことである[23]。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。「直任」が内規では「宣任」に置き換えられたのは、この直任の例が一回でもあれば該当させるためである[24]。具体的には以下の旧公家華族が伯爵に叙された[25]

旧大臣家 - 嵯峨家(大納言宣任数16回。後侯爵)、三条西家(同12回)、中院家(同10回)

旧堂上家 - 飛鳥井家(同14回)、姉小路家(同5回)、油小路家(同6回)、正親町家(同14回)、勧修寺家(同8回)、冷泉家(同14回)、烏丸家(同7回)、甘露寺家(同11回)、滋野井家(同7回。後失爵)、四条家(同13回。後侯爵)、清水谷家(同10回)、清閑寺家(同8回)、園家(同4回)、中御門家(同11回。後侯爵)、庭田家(同13回)、橋本家(同5回)、葉室家(同15回)、東久世家(同0回)、日野家(同15回)、広橋家(同5回)、坊城家(同9回)、松木家(同4回)、万里小路家(同9回)、室町家(同12回)、柳原家(同14回)、山科家(同5回)、鷲尾家(同8回)

陞爵 - 大原家大原重朝)、沢家(沢宣量)、壬生家壬生基修

上記のうち東久世家は代々中納言、参議まで昇進したが大納言まで進んだことはないので本来は子爵だったが、東久世通禧の幕末の尊皇攘夷運動への貢献と政府で要職を歴任した勲功により当初から伯爵位を与えられた[26]。羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである[27]。叙爵内規は羽林家名家半家、あるいは旧家新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する[28]。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない[28]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:142 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef