伏見宮貞致親王
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伏見宮
続柄

伏見宮貞清親王第2王子

崇光天皇9世皇孫


称号峯松君(幼名)、長九郎(通称)、円実照院
身位親王
敬称殿下
出生寛永9年5月27日1632年7月14日

死去元禄7年5月18日1694年6月10日

配偶者好君(近衛尚嗣の女)
 家女房(岡本将監の妹)
 家女房・按察使
 家女房(詳細不明)
子女邦永親王
真宮理子女王
父親伏見宮貞清親王
母親少納言局(安藤定子、安藤定元あるいは安藤定吉の女)
役職式部卿
サイン
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伏見宮 貞致親王(ふしみのみや さだゆきしんのう)は、江戸時代初期の皇族世襲親王家伏見宮第13代当主。父は伏見宮第10代当主の貞清親王邦尚親王の子とする系図があるが、これは貞致親王が邦尚親王の後継者とされていたためである。母の少納言局・安藤定子は安藤定元あるいは安藤定吉の女で、曾祖父は邦輔親王の王子・安藤惟実(邦茂王)。同母弟に邦道親王がいる。妃は関白近衛尚嗣の女、好君。後水尾天皇猶子[1]
生涯

貞致親王は寛永9年(1632年)に伏見宮貞清親王の庶子として生まれた。母親は安藤定子といい、伏見宮邦茂王の子孫。幼名を峯松君と称した。

『忠利宿禰記』によると、12~13歳の時(寛永20年(1643年)~正保元年(1644年)に、丹波国から上洛し、京都西陣の刀鍛冶である埋忠(明珍とも)の弟子となり、18歳の時(慶安2年(1649年)まで長九カと称した。『津田蔵書安藤家系』によると、貞致の母の妹は埋忠明珍の妻であったという。慶安2年(1649年)には明珍の弟子を辞めて丹波国の伯父・安藤定実安藤定次とも)の邸宅に戻った[2]

この頃伏見宮では後継者をめぐって争いが起きており、貞清親王の2人の息子の邦尚親王邦道親王のどちらを後継者にするか揉めていた。伏見宮家では、歴代当主の実名の第一字は「貞」と「邦」を交互に用いていたことから、邦道親王は邦尚親王ではなく貞清親王の後継者として考えられていたとされる。慶安2年(1649年)に邦道親王が親王宣下され継嗣となったしかし、邦尚親王派らは宮家に戻ってきた貞致親王を担ぎ上げることで巻き返しをはかろうとした。赤坂恒明は、邦尚親王派は貞致を子のいない邦尚親王の継承者と擬することによって、邦道親王派の抬頭を抑えようとし、これが『伏見宮系譜』等において貞致親王が本来は異母兄である邦尚親王の子とされた背景であるとしている[3]

慶安4年(1651年)には、安藤定明の子で安藤一門の本家である安藤定為が、分家出身の従姉・安藤定子と彼女から生まれた貞致親王を預かっている。『安藤略系』「長松軒惟翁傳」によると、定子は定明の養子となったとされており、それはこのタイミングであると考えられる。丹波の為明邸にいた貞致親王は、承応元年(1652年)に、21歳にして邦尚親王派の働きかけもあり、父・貞清親王の招きによって帰洛した[4]

しかし、まもなくして貞致親王の後ろ盾である異母兄の邦尚親王が死去したことで貞致の立場も危うくなり、承応2年(1653年)には、再び讒言により出奔した。「津田宗氏秘記」によれば、貞致親王と対立していたのは、伏見殿諸大夫の生島右京亮盛勝、内本左京亮吉泰らと伏見宮邦道親王の母、伏見宮邦尚親王の母であったという[5]。この際、貞致親王を引き取ったのは、かつての師匠である明珍であり、承応2年(1653年)から万治3年(1660年)に親王宣下を受けるまで明珍は貞致親王を保護した[6]

承応3年(1654年)に貞清親王、邦尚親王、邦道親王が立て続けに薨去し、伏見宮家は断絶の危機に直面した。邦道親王派の諸大夫達は、貞致親王の家督継承を阻止するために後水尾法皇の皇子を伏見宮家に迎え入れ、貞致親王を出家させる計画を立て、法皇からも認められたという。安藤定為は庭田雅純や三木冬仲に相談し、武家伝奏であった清閑寺共房と野宮定逸が江戸幕府に訴えたところ、幕府の命によって京都所司代板倉重宗が精察することとなった。これにより伏見宮の落胤であると認められ、久我広通の後見のもとに伏見宮を継いだ。万治3年(1660年)10月17日に親王宣下、27日に元服し、後水尾院東福門院猶子となり、弾正尹に任ぜられる。寛文5年2月18日に二品に叙せられ、兵部卿及び式部卿に任ぜられた[1]

寛文2年(1662年)4月25日には和歌会を開いており、八条宮智忠親王も「香久山天の岩戸も春に明て霞かかれる峯の真榊」という貞致親王を皇族として扱う歌を寄せていることからも、当時から貞致親王は皇族からも皇族(伏見宮家の子孫)であると認識されていたことがわかる[7]
母親について

貞致親王の母は、伏見宮家の諸大夫であった三河守安藤藤原定元の娘・安藤定子である。慶長8年(1603年)生まれであり、伏見宮邦尚親王あるいは伏見宮貞清親王に仕えた。定子はその後出家して号は仙寿院と名乗ったが寛永13年(1636年)5月3日に死没した。法号は慈眼院心和光清大姉であり、京千本浄光寺に墓があるという[8]

一次史料である『忠利宿禰記』によると、貞致親王は「下戚腹(身分の低い女性との間に生まれた子供)」と記されており、『伏見宮系譜』や同系譜に引用された二次史料である「津田蔵書安藤家系」によると「家女房(少納言局 安藤氏、名定子)」「伏見殿諸大夫参河守安藤藤原定元の女定子」が母親であるとされる。赤坂恒明は、「安藤定子」の名前は貞致親王が伏見宮家を継承したのちに遡及して付けられたとしている。また、『伏見宮系譜』で「家女房(実質的な側室であり下戚腹と呼ばれるほど低い身分ではない)」とされたのも後世の遡及であるとしている[9]

同じく『忠利宿禰記』には「丹波國□□ト云所ヘ養子ト成給」とあり、これは貞致が「十二三ノ時」より以前の幼少期のことであるから、貞致が母の実家である丹波国尾口村の安藤氏宅で出生した後、伏見宮家から認知されない落胤として処遇され、幼少期を丹波国で過ごしていたことがわかる[10]
子女

親王妃:好君(1641-1676) - 近衞尚嗣の娘

家女房

王女:致子女王(茂宮、1673-1728) - 常照院

王子:
邦永親王(1676-1726) - 第14代伏見宮

王女:理子女王(真宮、1691-1710) - 徳川吉宗

王子:某王(英宮、1692-1698) - 知冥院

王子:円猷(勝宮、1694-1753) - 歓喜心院

王子:道仁入道親王(房宮、1689-1733) - 天台座主


生母未詳

王子:某王(1666-1668) - 微巌院

王女:某王(正宮、1687-1689) - 正受院


出自に関する資料

貞致親王の出自に関する記述は複数あるが、全て貞致親王=伏見宮家の末裔であるという認識で一致している。逆に貞致親王の出自に対して疑問を抱いている資料や人物は存在しないため、当時から貞致親王は伏見宮家の末裔であると認識されていたことがわかる。
一次史料

貞致親王について記した一次史料は、大外記・壬生忠利の『忠利宿禰記』と、少外記・平田職俊が貞致親王薨去2年後の元禄9年(1696年)に編纂した親王家・公家系図、『諸家近代系図』の前田本が存在する。


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