伏見宮貞致親王
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寛文5年2月18日に二品に叙せられ、兵部卿及び式部卿に任ぜられた[1]

寛文2年(1662年)4月25日には和歌会を開いており、八条宮智忠親王も「香久山天の岩戸も春に明て霞かかれる峯の真榊」という貞致親王を皇族として扱う歌を寄せていることからも、当時から貞致親王は皇族からも皇族(伏見宮家の子孫)であると認識されていたことがわかる[7]
母親について

貞致親王の母は、伏見宮家の諸大夫であった三河守安藤藤原定元の娘・安藤定子である。慶長8年(1603年)生まれであり、伏見宮邦尚親王あるいは伏見宮貞清親王に仕えた。定子はその後出家して号は仙寿院と名乗ったが寛永13年(1636年)5月3日に死没した。法号は慈眼院心和光清大姉であり、京千本浄光寺に墓があるという[8]

一次史料である『忠利宿禰記』によると、貞致親王は「下戚腹(身分の低い女性との間に生まれた子供)」と記されており、『伏見宮系譜』や同系譜に引用された二次史料である「津田蔵書安藤家系」によると「家女房(少納言局 安藤氏、名定子)」「伏見殿諸大夫参河守安藤藤原定元の女定子」が母親であるとされる。赤坂恒明は、「安藤定子」の名前は貞致親王が伏見宮家を継承したのちに遡及して付けられたとしている。また、『伏見宮系譜』で「家女房(実質的な側室であり下戚腹と呼ばれるほど低い身分ではない)」とされたのも後世の遡及であるとしている[9]

同じく『忠利宿禰記』には「丹波國□□ト云所ヘ養子ト成給」とあり、これは貞致が「十二三ノ時」より以前の幼少期のことであるから、貞致が母の実家である丹波国尾口村の安藤氏宅で出生した後、伏見宮家から認知されない落胤として処遇され、幼少期を丹波国で過ごしていたことがわかる[10]
子女

親王妃:好君(1641-1676) - 近衞尚嗣の娘

家女房

王女:致子女王(茂宮、1673-1728) - 常照院

王子:
邦永親王(1676-1726) - 第14代伏見宮

王女:理子女王(真宮、1691-1710) - 徳川吉宗

王子:某王(英宮、1692-1698) - 知冥院

王子:円猷(勝宮、1694-1753) - 歓喜心院

王子:道仁入道親王(房宮、1689-1733) - 天台座主


生母未詳

王子:某王(1666-1668) - 微巌院

王女:某王(正宮、1687-1689) - 正受院


出自に関する資料

貞致親王の出自に関する記述は複数あるが、全て貞致親王=伏見宮家の末裔であるという認識で一致している。逆に貞致親王の出自に対して疑問を抱いている資料や人物は存在しないため、当時から貞致親王は伏見宮家の末裔であると認識されていたことがわかる。
一次史料

貞致親王について記した一次史料は、大外記・壬生忠利の『忠利宿禰記』と、少外記・平田職俊が貞致親王薨去2年後の元禄9年(1696年)に編纂した親王家・公家系図、『諸家近代系図』の前田本が存在する。『諸家近代系図』において、貞致親王は貞清親王の子とされ、邦尚親王の弟として系線が引かれている[11]

今日辰刻、伏見殿貞致親王宣下。次第。上卿先被遂著陣。藏人方吉書披見。辨ョ孝(葉室)。吉書持參被返後、史下氣色如例。大史床子座有。請取氣色如例。追付陣儀。上卿(奧)。職事(ョ孝)御名字下。今度御名字被書改由也。次上卿著端座。次以官人令敷軾。次以官人召辨(光雄(烏丸))。軾參御名字下給。於床子座前、史(利昭)給大史(忠利)。床子有請取之氣色如例。此間職事陣出テ、以權大納言藤原朝臣資行(柳原)貞致親王家可爲勅別當。職事退。次以官人召辨、仰云如職事。辨於床子座前史仰如職事。大史床子座有少史如例申之。次上卿以官人令撤軾、退出。上卿日野權大納言弘資卿。職事葉室左中辨ョ孝。辨烏丸右少辨光雄。勅別當(【傍注】神宮傳奏也)柳原權大納言資行卿。左大史忠利。大外記師定朝臣。外記中原定慶。史小槻利昭。諸役人如例。巳刻退出、歸宅、宣旨調。貞致 右少辨藤原朝臣光雄傳宣。權大納言藤原朝臣弘資宣。奉 勅、宜爲親王者。萬治三年七月十七日 左大史兼主殿頭(算)博士小槻宿禰忠利(奉)權大納言藤原朝臣資行 右少辨藤原朝臣光雄傳宣。權大納言藤原朝臣弘資宣。奉 勅、件人宜爲貞致親王家別當者。 萬治三年七月十七日 左大史兼主殿頭(算)博士小槻宿禰忠利(奉) 如此宣旨貳通調。親王ノ宣旨、伏見殿亭へ持參。(中略)貞致親王は伏見殿□□親王の御子、丹波国□□と云所へ養子と成給、十二三ノ時西陣理忠(理力)と申鍛冶の弟子に御成十八歳迄名長九朗と申、今度御跡目之故吟味有之、再度世に出給事也、鍛冶も事外きょうの由取沙汰之、不思議之沙汰有之、委細重而可注事也、万事久我右大将廣通卿指南後見有之、邦道親王の御舎兄之由也、下戚之由也。(『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日庚午[7]

二次史料

邦尚親王第一王子、母は安藤定吉の女、藤原定子なり、
寛永9年(1632年)5月27日誕生なり(「伏見宮実録」第八巻、「伏見宮系譜」[7]


万治3年(1660年)6月27日に後水尾天皇御猶子となり親王宣下(「伏見宮系譜」[7]


貞致親王誕生以来承応元年貞清親王之依御招到于御帰洛之年二十一年之間於于定次宅奉養育也、定次者定元之男定子の弟也。(「伏見宮実録」[7]


貞致親王依讒言自承応二年到于萬治三年御沈淪、七年之間、母儀ノ妹ナル者依為明珍妻、於于明珍宅奉養育云々、明珍者理忠氏也。(「伏見宮実録」[7]


承応元年貞致親王御童形形廿一歳ニシテ自丹州御帰洛、是貞清親王ノ依御招也、到于茲於于定次ノ宅奉養育二十一年、此時宗氏供奉リ伏見殿諸大夫生島右京亮盛勝、内本左京亮吉泰等、興邦道親王ノ母儀謀テ、讒貞致親王於貞清親王、依之貞致親王御逼塞、承応三年七月四日貞清親王薨去、邦道親王薨去、貞致親王廿三歳伏見殿御惣領無紛之條就于傳奏閑院大納言野宮大納言所司代板倉周防守訴訟之萬治三年依于武命板倉周防守参入貞致親王逼塞ノ御所、而奉渡御親王沈淪七年、萬治三年七月廿七日元服後水尾院東福門院御猶子タリ、宗氏貞致親王ヲ二十一年於于定次宅奉養育亦先途之依功労蒙諸大夫ノ命云々。(「津田宗氏秘記」[7]


定為ハ寛永四年四月十四日抱琴園ニテ生レ、安藤新五郎ト称ス二十五歳ノ秋伏見殿貞致親王(時ニ二十歳)御母儀少納言(定為ノ姉、実ハ叔父定吉ノ娘)共ニ竹園ヲ出テ定為ノ家ニ依リタマフ、其故は貞清親王の御次男邦道親王の御母儀と御長男邦尚親王の母儀、寵をねたみ、且つその所生を立んとして讒言むつかしく其余響貞致親王及び御母儀少納言にまで及びたればなり、然るに承応三年七月、貞清親王及び御次男邦道親王モウチツヅキ御薨去、且つこれよりさき、御長男邦尚親王も既に御薨去にましませば正く竹園の御家督は貞致親王にまぎるる事なきなりしが、仙洞の皇子あまたましければ、江戸へ申させたまひて、伏見殿へ入れまいらせ、則ち貞清親王の御嗣たるべき貞致親王は御出家あるべき御内意にてありしかば、定為はこれを聞き竹園の一大事とし、庭田雅純朝臣・三木冬仲等と相議して貞清親王の御嫡孫にして邦尚親王の御子たる貞致親王のまします由を京都所司代板倉周防守より江戸へ執し申されん事を訴へらる、その程の労役或は防州の館又は江戸下向など、定為独り當り玉ふ、公儀明察にして仙洞の叡慮空くならせたまひ、貞清親王御利運をひらき、伏見殿御相続ましましけるはひとへに定為の力なりと世の人も感じ侍りけるとぞ。(「安藤家由緒書」定為ノ伝[7]




(安藤定為)二十五歳の秋(一六五一年)、伏見殿貞清親王の御子邦尚王・邦道王の御母たち(をの々々家の女房にして異腹なり)事出きて邦尚の御子貞致王御母少納言の局(定明の養女。定為の姉なり。但し實は定吉のむすめにて侍り)共に伏見殿を出て定為の家に入て年月送りたまふ。後に邦尚も邦道も早世まし々々たれは、おのつから貞致王ハ伏見殿へ帰らせたまひて貞清親王の家督をうけたまひぬ。(『安藤略系』「長松軒惟翁の伝」[7]

出典^ a b 四親王家御系譜
^ 赤坂恒明「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」渡邊大門編『歴史が拓く未来』(歴史と文化の研究所、2021年1月)
^ 赤坂恒明「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」渡邊大門編『歴史が拓く未来』(歴史と文化の研究所、2021年1月)
^ 赤坂恒明「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」渡邊大門編『歴史が拓く未来』(歴史と文化の研究所、2021年1月)
^ 「津田宗氏秘記」
^ 赤坂恒明「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」渡邊大門編『歴史が拓く未来』(歴史と文化の研究所、2021年1月)
^ a b c d e f g h i 吉岡眞之、藤井讓治、岩壁義光編『四親王家実録 第T期 伏見宮実録』第八巻(ゆまに書房、2015年)


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