伎楽
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だが、奈良時代にさかんに行われていた伎楽も、平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった(『教訓抄』)[3]。それは、寺院歌舞としては舞楽が盛んになった、内容に懸想模様など卑俗な部分が多かった、寺院楽として伝わったので内容も登場人物も力士・金剛など仏教的で、その後に習合した神道に触れない、などの理由と推定されている[10]
伎楽の影響

波羅門の「ムツキアラヒ(褌を洗う所作)」は、後の猿楽に「妙高尼之襁褓乞」として受け継がれ(『新猿楽記』)、伎楽の喜劇形式と滑稽な演技が猿楽に影響している[11]

舞楽とは雅楽器の演奏に合わせて踊るもので、今は雅楽の曲目の1種類だが、その起源は伎楽での舞の部分が雅楽と合流してできた(『教訓抄』)[12]。伎楽の楽曲部分が主に笛の曲として雅楽に取り入れられた[9]

伎楽そのものは鎌倉期に衰退したが、伎楽が後世の芸能に及ぼした影響は大きい。現在単独の形だが、各地の獅子舞の形式と祭礼に魔を祓う登場の仕方などのルーツも伎楽にある[13]。治道が猿田彦天狗王鼻などに変化して祭礼の露払い役で残る[14]。また、各地の寺院で行われる「お練供養」や菩薩来迎会にその痕跡をとどめている[13]
伎楽の復元

昭和55年(1980年)、東大寺大仏殿昭和大修理落慶法要を飾る一大プロジェクトとして、その一部が復元された。復元作業にあたっては、現存する資料を元に、宮内庁楽部楽師・芝祐靖(復曲)、NHKプロデューサー・堀田謹吾(企画)、元宮内庁楽部楽長であり小野雅楽会会長であった東儀和太郎(振り付け)、東京芸術大学教授・小泉文夫(監修)、並びに、大阪芸術大学教授・吉岡常雄(装束制作)らの尽力によって実現。雅楽部総監督は佐藤浩司天理大学教授、演技は天理大学雅楽部が担当した。以降、天理大学雅楽部は『教訓抄』記載の伎楽の復元試作を続け、復曲は引き続き芝祐靖が当たった。「行道乱声」「獅子・曲子」「呉公・呉女」「迦楼羅」「崑崙」「婆羅門」「金剛・力士」「太孤」「酔胡」の復曲により、1990年には文献に記載された伎楽曲が残らず揃い、雅楽部も演奏できるようになる。なお、同部は、平成4年(1992年)からは薬師寺において、創作伎楽『三蔵法師』にも取り組んでいる[15][16]
真伎楽

1991年五世野村万之丞は、狂言師として仮面劇の歴史を追求する末に伎楽と出会い、新たな形での仮面劇での復元を構想し、アジア各国を調査し、各国俳優やダンサー、音楽家と対話と実践を重ね、2001年に「真伎楽」と名付けた形で復興させた。2001年10月16日東京都庁前広場で初演、天の計らいという奈良県明日香石舞台古墳前での2回目公演を実施した[17]。以降、福岡県太宰府公演を経て韓国へ渡り、扶余ソウルで上演された。その後、2004年万之丞の急逝後も遺志であった中国公演を2007年に実施して、その後も活動中である[18]

復元した伎楽面を被った演者たちの感想では、狂言の面や日本に多い顔の前面に紐で固定する形式の面と違い、頭部に被るので、すっぽりと包まれた母親のお腹にいるような感覚を覚え、一気に別の人物に憑依するという[19]
伎楽の上演様態

奈良時代に仏教寺院で行われていた伎楽は、『教訓抄』とその研究から次のような上演様態をもつとされている[20]
1.先頭は治道で魔を避ける僻邪として露払いし、行道という一種のパレードが行われる。

これは読経をともないを賛美するものと考えられる。このパレードは「治道(ちどう)」とよばれる鼻の高い天狗のような仮面をつけた者が先導する。次になどの楽器で構成される前奏の楽隊、音声という声楽のパート、さらに獅子、踊物、そして後奏の楽隊、帽冠(ほうこ)とよばれる僧がつきしたがう。一行が、しつらえられた演技の場に到着する
2.獅子舞がはじまる。

これは演技の場を踏み鎮める役割をはたす。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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