伍長
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1871年4月2日(明治4年2月13日)に御親兵を編制して兵部省に管轄させることになり[12]、また同年6月10日(同年4月23日)に東山西海両道に鎮台を置いて兵部省の管轄に属すことになり[13]、明治4年5月には兵部省によって伍長を命じる例や、喇叭伍長・会計書記伍長を命じる例が見られる[注釈 10]西海道鎮台小倉本営が定めた規則では長官以下の統率の例として「兵卒は伍長に聴従し、伍長は裨官及び嚮導に聴従し、分隊司令及び半隊司令は小隊司令に聴従し」とあり、伍長は編制上の職名として扱われているように見える[19]

このときの伍長は下等士官ではないためその待遇は兵卒に近く、陸軍徽章で定めた軍服階級章は、紐釦並びに帽前面章は伍長は兵卒と同じで下等士官とは区別しており、下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とした[20]。下等士官と兵卒は軍帽の周囲黄線、上衣の袖黄線でその階級を区別しており、伍長は軍帽・袖章とも小3条である[21]親兵についても伍長は下等士官の下としており、その紐釦・帽前面章、軍帽・袖章は同様の区別をしている[22]。また、兵部省陸軍下等士官給俸定則でも、曹長以下軍曹以上については衣服は官給、食料は自弁とすることができるのに対し、伍長以下二等兵卒以上は衣服食料とも官給とした[23]
1871年(明治4年8月)の陸軍

廃藩置県の後、1871年(明治4年8月)の陸軍においても伍長は、軍曹の下、兵卒の上にある[注釈 11]。このときの伍長は下等士官ではない[注釈 12]。官等表に掲載する大尉以下軍曹までを判任としたのに対し、官等表に掲載しない伍長以下兵卒までを等外として扱った[27]明治5年1月の官等表改正後も同年2月陸軍省設置後も軍曹以上は判任で伍長以下は等外である[28] [29] [30]

陸軍徽章を増補改定しているが下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とし、伍長は軍帽・袖章とも小3条で変わりない[31]。また、兵部省陸軍・士官兵卒・給俸諸定則でも、下等士官については食料として毎月金5両を賜るのに対し、伍長以下は現賄を賜るとした[32] [注釈 13]

1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表では、官名として伍長、分課として砲兵・騎兵・歩兵、等級として一等・二等、所属として近衛鎮台があり、これらの組み合わせで俸給額に違いがあった、また列外増給として会計・書記伍長には増給の規定がある[35]
1873年(明治6年)5月の陸軍

1873年(明治6年)5月から伍長は陸軍における下士の最下級となる[注釈 12]。軍曹の下、兵卒の上にありその官等は15等のうち十三等であった[25] [注釈 14]。伍長の人事手続きには軍曹以上との違いがあった[注釈 15]。伍長一等・伍長二等と表記することがあるが[39]、官名は伍長(曹長・軍曹も同様)であり給料に関係するためやむを得ない場合の表記である[40]

1874年(明治7年)11月30日改正の部隊編成では、伍長は歩兵大隊書記・病室掛・喇叭長、歩兵中隊炊事掛・中隊附、騎兵大隊炊事掛・病室掛・喇叭長・大隊附、山/野砲兵大隊書記・病室掛・喇叭長、山砲兵小隊(本隊)照準手、山砲兵小隊(予備隊)炊事掛・予備隊附、野砲兵小隊(本隊)弾薬車長・照準手、野砲兵小隊(予備隊)炊事掛・予備隊附、工兵輜重兵小隊炊事掛・病室掛・喇叭長・小隊附である[41]

1874年(明治7年)に北海道屯田憲兵を設置することを定め[42]、1875年(明治8年)3月4日に開拓使の中で准陸軍伍長の官等を定め、その官等は正官と同じとした[43] [44]

1875年(明治8年)11月24日に改正した陸軍武官服制では、伍長の袖章は内記打3条である[45]

1875年(明治8年)12月17日に定めた陸軍給与概則では、伍長の俸給は科目として砲・工、騎・輜、歩、等級として一等・二等があり、これらの組み合わせで俸給額が決まる[46]。職務増俸については伍長は書記・炊事掛・病室掛を務める場合に増俸がある[46]

1877年(明治10年)2月26日に陸軍武官服制を追加並びに改正し、上等卒の服制を追加して袖章を3条として一等卒よりも1条多くして、伍長並びに同相当官の袖章3条を改めて4条とした[47]

1877年(明治10年)1月に官等を17等に増加しているが[48]、1879年(明治12年)10月10日達陸軍武官官等表では伍長は引き続き十三等としており、このとき官名に憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各兵科の名称を冠することにした[49]

1882年(明治15年)2月8日に開拓使を廃止したことから[50]、屯田兵の準陸軍伍長を陸軍省に管轄させた[51] [44]

1883年(明治16年)5月4日太政官第21号達で陸軍武官官等表を改正し、憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の各兵科伍長の官名から陸軍の二字を除いた[52] [53]

1884年(明治17年)に部隊編制の変更があり、従前は軍曹は主として半小隊長の職務を務め伍長は主として分隊長の職務を務める者であるところこれでは差し支えることが多いため、軍曹を一等軍曹に伍長を二等軍曹に任じてともに半小隊長の職務を務めさせて分隊長を上等兵に務めさせることにした。明治17年6月から明治18年7月までの間を予定して編制替えを行いこれが完了するまでは軍曹・伍長と一等・二等軍曹を併用した[54]

1885年(明治18年)5月5日太政官第17号達により陸軍武官官等表を改正して輜重兵二等軍曹の次に屯田兵伍長を置いた[55]。従前の准陸軍伍長は屯田兵伍長の官名に換えた[56]

1886年(明治19年)3月9日勅令第4号で陸軍武官官等表を改正して再び官名に陸軍の2字を冠することとし、屯田兵でも伍長を廃止して屯田兵伍長の官名を陸軍屯田兵二等軍曹に改めた[57]
1889年(明治22年)の陸軍憲兵

1889年(明治22年)に陸軍で憲兵分隊の編制上の職務として伍長を置いて憲兵下士若干名を以ってこれに充てた[58]

1895年(明治28年)に陸軍で憲兵分隊の編制を改めて上等伍長(准士官)と伍長を置いて憲兵曹長を以ってこれらに充て、ただし上等伍長を置かないことが出来るとした[注釈 16]。在職中の准士官である憲兵上等伍長の給与・服制は憲兵下副官と同じとした[60] [61]

1898年(明治31年)には内地の治安が安定しかつ地方警察が発達したことから憲兵の平時定員を削減するとともに編制を改めて、第一乃至第十二憲兵隊の分隊に本部と伍を設けて伍長は憲兵曹長・一等軍曹を以ってこれに充て、第十三乃至第十五憲兵隊の分隊も同様に本部と伍を設けて伍長は憲兵下士を以ってこれに充て、附則により従前の上等伍長である者であって改正勅令施行の際に伍長を命ぜられた者の身分取り扱い及び給与は服役期限満了まで従前の規定によるとした[62]


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