伍子胥
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これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。これを上辺と見抜き、越に対する警戒を忠告する伍子胥と、越など置いて一刻も早く中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってきた。范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。また、西施という美女を送り込んで、夫差を骨抜きにさせて越を警戒しないように仕向けたとも言われている。
最期

夫差は北方のが幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。また、伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯?への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたことも、両者の不仲を増大させた。

その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。

紀元前484年、これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に子[3] を斉の鮑氏に預けたが、先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻った。この事が本国に帰った後に問題になり、加えて伯?が「伍子胥は剛暴で恩愛の情が少なく、王に恨みを持っております。何もしなければ大いなる災いを招くでしょう」と讒言したため、伍子胥は夫差から属鏤(しょくる、名剣の名)の剣を渡され、自害するようにと命令された。

その際、伍子胥は「ああ、奸臣伯?が乱す。私はお前(夫差)の父を覇者とし、諸公子が争ってる時にはお前を推薦した。後継者と確定した際、呉を分けてくれると言ったが、私は(良き王と国になることを)願って受け取らなかった。その結果が死ねと命じられることか」と嘆き、「自分の墓の上にの木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い残し、自ら首をはねて死んだ。

だが、その言葉が夫差の逆鱗に触れ、伍子胥の墓は作られず、遺体は馬の革袋に入れられて川(呉淞江)に流された。人々は彼を憐れみ、ほとりに祠を建てたという。伍子胥が死んだ後、呉には夫差の国力浪費を咎める者も越を警戒する者もいなくなった。

その後、伍子胥の予言通りに国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。この際、勾践は夫差に使者を送り小島の領主にすると言ったが、夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません。伍子胥の言葉を取り上げずに、自分自身がこんなに陥ったのは残念です」と言い残し、顔に布を覆って「私は伍子胥に合わせる顔がない」と言い残して、自決した[4]
評価

伍子胥は激情の人である。その何人も恐れぬ激情さゆえに多大な功績を上げた。しかしその激情ゆえに最後は主君と対立し疎まれ、自殺に追い込まれた。一方、范蠡は冷静に時流を読むや越を去り、最後は斉で富豪になったといわれる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鮮やかに身を引いて人生を全うした范蠡の生き方に後世の人々は感服し敬愛したが、その一方で激情の人の伍子胥の激しい生き様にも心を打たれ愛情を注いだ[要出典][5]

この例は後世にも引き出され、宰相范雎が自分の身内が次々と罰せられた際に遊説家の蔡沢からこの2人の例を聞き、引退を決意したとされている。[要出典]

曹操官渡の戦いの時に自軍に降ってきた張?らを出迎える時に伍子胥の最期を引き合いに出し、「伍子胥は仕える君主を間違えた事に気付くのが遅かった。君が私に降伏したのは微子啓を裏切ってに仕え、韓信項羽の下を去って劉邦に仕えたような真っ当な行動である」として偏将軍に任命し、都亭侯に封じた。

司馬遷の『史記』では、「建(楚の太子)は讒言におち、(禍いは)伍奢に及んだ。(伍奢の子の)伍尚は父の言いつけ通りにしたが、伍員はのがれて呉へいった」と列伝の6巻に「伍子胥列伝」として取り上げられている。その纏めで「怨恨の害毒が人に与える影響はとても大きなものだ。王でさえ臣に怨みを持たせるような行いはできない。同列なれば尚更である。初めに伍子胥が父に従い死んだとして、その命が虫けら達と違うところがあっただろうか。小さな義を捨て大きな恥を雪ぎ、その名声を後世にまで残したのである。悲壮な人生ではないか。楚軍によって揚子江のほとりに追い詰められた時は乞食にまでなったが、その志は郢(楚の都。復讐の対象)を忘れることは無かった。だから、隠忍して功名を成し遂げることができたのである。壮烈な偉丈夫でなければ、誰がいったいこれほどの難事を成し遂げられるだろうか」と司馬遷は肯定的な評を加えている。列伝70巻のうち最初から6番目に単独の列伝として取り上げていることから、司馬遷の評価は高かったと思われる。[要出典]

しかし、伍子胥を非難しているものもあり、『史記』の伍子胥列伝の申包胥だけではなく、『春秋穀梁伝』定公四年にも「子胥の復讐は、君臣の礼に違い、王の事えるの道を失う」とあり、やはりその行き過ぎが責められている。君臣の関係を絶対的なものとみれば、伍子胥の行動は許すべからざる逸脱ということになる。『春秋穀梁伝』の評価は、現在の目からは腑に落ちないが経典の道徳的読解としてはあり得るものであると思う。このように、伍子胥に対する見方は一様ではない。確かに彼は父と兄の仇に復讐を果たしたのであり、そのことは評価されつつも、故君を敵として、死骸を鞭打ち果ては国そのものを滅ぼさんとする、あまりに激しいその意志に対して、嫌悪感や抵抗感が惹起されるのも仕方のないことである[6]
逸話

一説によると、端午節は伍子胥の命日であるため、5月5日の端午節は伍子胥を記念する日になったという[7][8]
脚注^ 物事を行うに当たって、正しい道理に逆らった手段・方法を採ること。転じて、時代の風潮に逆らうよくない行いにも用いる。三省堂 新明解四字熟語辞典[1]
^ 闔閭には早世した長男の太子がいた(『史記索隠』が引く『竹書紀年』では「太子波」、『春秋左氏伝』では「太子終?」)。他に三男の公子子山がいた(『春秋左氏伝』)。
^春秋左氏伝』の昭公20年(紀元前522年)にある「楚・伍氏」の系譜によると、子の名は「伍豊」。また、曾祖父の名が「伍参」、祖父の伍挙の別名が「伍椒挙」、叔父の名が「伍椒鳴」と記されている。
^ 『史記』越王勾践世家より。『春秋左氏伝』によると夫差は伍子胥のことは触れずに「私は年を取って、あなた(勾践)に奉仕することはできない」と述べて縊死した。
^ 呉の都であった姑蘇は現在の蘇州市であり、伍子胥に因んだ地名が多い。また、2006年には伍子胥の墓があったとされる蘇州市呉中区胥口鎮に、地元企業(日系も含む)も協賛して胥王廟が建設されているなど、地元での人気は今でも根強い。
^ 竹内康造『中国の復讐者たちーともに天を載かず』大修館書店、2009年。 
^“端午の節句”. (2016年8月6日). ⇒http://j.people.com.cn/cehua/20040622/home.htm 2016年5月17日閲覧。 
^“端午節について知らねばならぬこと 端午節の由来”. (2016年8月6日). ⇒http://japan.visitbeijing.com.cn/culture/n215169485.shtml 2016年5月17日閲覧。 

参考文献

司馬遷. “伍子胥列伝” (漢文). 史記. 「諸子百家 中國哲學書電子化計劃」網站的設計與内容. https://ctext.org/shiji/wu-zi-xu-lie-zhuan/zh 

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