伊達政宗
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^ 1974年に政宗の遺骨を調査したときに左足腓骨の骨折跡が確認されている[29]
^ 東北地方の戦国時代史研究家である小林清治は、政宗の勢力拡張について、平安後期に白河以北の地を席巻した奥州藤原氏の勢力に匹敵するものであると評した[31][32]。一方、同じく研究家の垣内和孝は政宗が家督を継ぐ直前の天正9年に発生した御代田合戦の結果、佐竹義重が会津・仙道・海道を地域統合した盟主としての地位を確立するとともに伊達氏の勢力と隣接していたことを指摘し、政宗の当初の意図は佐竹氏とその傘下の連合勢力の北上に立ち向かうものであったものが、彼の軍事的才能によって反攻に転じ、数年で政宗と義重の立場が入れ替わったと指摘している[33]。また、『重修真書太閤記』では「正宗終に二本松大崎一栗などを合わせ150万石余を知行しけるが」と記述されている。政宗の領土は面積的には、東北地方の1/3に留まる。しかし、太閤検地時に石高の高い東北地方南部を支配しているため、石高では高くなる。石高の言及はないが、政宗が奥羽の30余郡を支配したとの同様の記述は『氏郷記』にもある。
^ 田村領也二本松領、二階堂領を含んでの72万石であり、政宗が相続した当時は当然田村氏・二本松氏・二階堂氏がそれぞれ統治していた。
^ 慶長2年に書かれた宇都宮国綱家臣録の中村日向守の功に「後仙台伊達ト号ス陸奥守ノ先祖也」との但書が記載されており、中村城主であった時長が当時既に伊達家との縁戚関係にあった事が周知の事項であったと推察されている。
^ 伊達男とは政宗が派手好みでばさらかぶきな振る舞いが多い事から苗字を取って伊達男となった、と思われる事が多いが、伊達政宗の数百年前から「男立て」(おとこだて。男らしくあるいは勇敢に振舞う、という意味だが、徐々に男らしさを演出する傾向が強くなっていく)という言葉があり、それが略されて「だて」となり、やがて「伊達」と結び付けられていった。
^ 重臣・片倉景綱(小十郎)は、上杉・最上両軍の戦いを山形城が落城するまで傍観し、上杉勢が疲弊しきった所を討つべしと進言したが、母・義姫がいる山形城を見捨てるに忍びないと、政宗はこの策を受け入れなかったという説話がある。
^ 薩藩旧記雑録 後編巻四 1263号
^ 河北新報で連載されている「独眼竜政宗」(千葉真弓著)など
^ ただし、既述の通り、政宗はこの叙任を辞退している。
^ この時点で、水戸徳川家当主・頼房加賀前田家当主・利常薩摩島津家家久と官位が並ぶ

出典^ a b 小林 1959, p. 1.
^ a b c 小林 1959, p. 215.
^ 『伊達政宗遣欧使節記』 - 京都外国語大学・京都外国語短期大学附属図書館
^ 大槻文彦『伊達行朝勤王事歴』
^ 小林 1959, p. 5.
^ 小林 1959, p. 3.
^ 米沢・舘山城跡で発掘調査始まる「伊達政宗生誕の地」の説も 河北新報 2021年9月26日、2022年5月17日閲覧。
^ 小林 1959, p. 20.
^ 垣内 2017, pp. 56?57, 「伊達政宗の家督継承と蘆名氏」.
^ 小林 1959, p. 26.
^ 小林、1985、p.26
^ 飯田紀伊守宛知行判物
^ 10月23日付伊達政宗書状(『政宗文書』5号)
^ 「伊達政宗18歳、当主となった高揚感あふれる…伯父の最上義光に宛てた書状」読売新聞、2023年7月7日付
^ a b “伊達政宗はいつ家督を相続したのか 最上義光宛伊達政宗文書を通じて”. 新着情報:プレスリリース. 山形大学 (2023年7月6日). 2023年7月8日閲覧。
^ 某年正月26日付伊達輝宗書状(青山文書『福島県史 7』69-50)。年代は不明であるが小林清治はこの書状の中には天正2年(1574年)9月に死去した田村隆顕(清顕の父)の話題も入っているため、同年以前の作成とする。
^ 天正12年10月9日付谷部下野守宛佐竹義重書状(『大日本史料』11の9)・天正14年10月16日付佐竹義重覚書(「秋田藩採集文書」10および『会津若松史』8
^ 小林 2008, pp. 22?29, 「政宗家督相続の前提」.
^ 垣内 2017, p. 29, 「南奥の統合と佐竹氏・伊達氏」.

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