伊達政宗
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永禄10年8月3日(1567年9月5日[1]出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗(てるむね)と、正室である最上義守の娘・義姫最上義光の妹)の嫡男として生まれた。幼名は梵天[6]。生誕地は通説では米沢城であるが館山城とする学説もある[7]

天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名付けられる。の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。梵天丸はこの諱を固辞したが、父・輝宗より強いて命ぜられた。史料上にも正宗と書かれたものがいくつかあるが、これは誤記や区別のための書き違えである。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが[注 1]、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。

天正7年(1579年)10月、仙道の三春城主・田村清顕より婚儀の相談があり、御入輿の日取り、路次警固等合い調う。その冬、政宗が13歳のとき、清顕の娘、当時11歳の愛姫(めごひめ)(伊達政宗と同じく伊達稙宗曽祖父にもつ)を正室に迎える。伊達郡梁川城で輿の引継ぎが行われ、伊達成実遠藤基信らに守られて、雪深い板谷峠を避け、小坂峠七ヶ宿二井宿峠を経て、米沢城に入輿した[8]

天正9年(1581年)5月上旬、隣接する戦国大名相馬氏との合戦で伊具郡に出陣、初陣を飾る。また、この頃から輝宗の代理として田村氏蘆名氏との外交を担当しており、蘆名盛隆が対相馬氏戦で援軍を送ったのは政宗の働きかけによるものである[9]
家督相続から摺上原の戦いまで伊達政宗の馬印(右)伊達政宗の馬印(左)

天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し[10]、伊達家第17代当主となり、父と同じく米沢城を本拠とする。この時、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けている[11]。なお、仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』では、家督相続を10月6日から22日の間の出来事と記し、これについては現存史料でも輝宗の当主としての発給文書の終見が10月5日付[12] で、政宗の当主としての発給文書の初見が10月23日付のうえ、輝宗隠居の知らせを聞いた石川昭光(輝宗の実弟)からの問い合わせに対する回答[13] と伝えられている。2023年に入り、山形大学名誉教授の松尾剛次は最上義光宛の天正12年某月12日付書状の内容を再検討した結果、家督相続は10月12日、あるいは少なくとも10月12日までのことであるとした[14][15]。松尾によれば典拠として、当主の専決事項である軍事指揮権を行使した言及があることや書状の文末に天童氏との戦いに触れた部分があることを挙げ、また当該書状は花押が家督相続前のものであることや「家督を継いでいない」と読み取れる部分があること、白鳥長久の殺害に関する言及があることから、これまでは6月12日付のものと考えられていたとした[15]

この当主交代について、小林清治は10月6日に会津の蘆名盛隆が家臣に暗殺されたことを受けて、輝宗がかつて蘆名盛氏(盛隆の養父)に対して自分の次男(小次郎)が成長したら盛氏の養子にする案を示した書状[16] を交わしていた事を理由に、9月に生まれたばかりの盛隆の遺児蘆名亀王丸(亀若。


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