島嶼地域であるため、ニホンアシカ[13]以外の大型の陸棲・半陸棲の哺乳類は自然分布しておらず、陸棲哺乳類の多様性の大部分はネズミ類とコウモリ類である。一方で、他の伊豆諸島とは異なり、ニホンイタチが在来種として存在する。日本列島の固有種であるアカネズミも生息し、伊豆大島の個体群が固有亜種である可能性も指摘されている[9]。
本州に近いために陸棲の爬虫類や両生類の生息も他の伊豆諸島と比較しても目立ち、貴重なオカダトカゲは他の伊豆諸島の事情と異なりニホンイタチが在来種として分布しているため、イタチの存在に適応している[10]。縄文時代に該当するイノシシの記録も存在するが、伊豆諸島におけるイノシシの記録が自然分布と人為的な要因のどちらに由来するのかに関しては不明瞭な点が多いとされる[14]。
(野良猫など以外の)代表的な外来種には、キョン、タイワンザル、タイワンリス、アオガエル、ツチガエルなどがいる[9][10]。人為的に持ち込まれた種ではないが、ムラサキシジミやアゲハチョウやタテハチョウは1990年代以降などに定着したと考えられている[15]。
島の近辺を黒潮が流れており、ウミガメやシュモクザメなど[16]様々な回遊性の海洋生物や海鳥が見られるため、ダイビングやバードウォッチングやフィッシングや漁業などの産業や観光資源を支えている。他の伊豆諸島から渡ってきたと思わしいミナミハンドウイルカも島の沿岸で見られ[17][18]、マッコウクジラやツチクジラやザトウクジラや他の鯨類が島の周辺で見られることもあるが[19][20]、とくに一部のクジラには船舶との衝突の危険性があり[21]、東海汽船などの各運航会社にとって大島の周辺は要警戒海域と見なされている[22][23]。
また、絶滅したとされているニホンアシカも生息していた[13]。 大島で確立された島民の女性の衣装や生活スタイルを「アンコ」と呼ぶ風習があり、現在でも大島を象徴するイメージの一つとして観光に活かす動きもある[24]。 『日本書紀』の飛鳥時代の記述に、推古天皇28年(620年)八月条に掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したとある。この伊豆島は伊豆諸島のことを指していると考えられる。書紀の記録ではほかにも、天武天皇4年4月18日条(675年5月20日)には麻績王の子が、同6年4月11日条(677年5月20日)には田史名倉などが伊豆島に流刑に処されている。 このように伊豆島は古くから流刑地とされ、『続日本紀』によれば神亀元年(724年)には伊豆国が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められた。『続日本紀』には文武天皇3年5月24日(699年6月29日)には役小角が「伊豆嶋」に流された記録があるが、『扶桑略記』での対応記述は「仍配伊豆大島」とされており、この配流地は伊豆大島だったと考えられる。律令制においては伊豆国賀茂郡に属していたが、江戸時代に入ると江戸幕府の直轄とされた。『殿暦』永久元年10月22日条(1113年12月9日)の記事によれば、同年に醍醐寺の仁寛(立川流の祖)が罪を得て「伊豆大島」に流されたという(永久の変)。
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