伊藤整
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また小山書店はこの裁判が始まると融資が受けられなくなり、経営が行き詰って倒産することとなった[11]

この翻訳は1964年に、戦後では珍しい伏字を使って出版された。同訳での他の文学全集もそれに拠っている。なお完訳は1973年に、講談社文庫から羽矢謙一訳が刊行され、1975年の『世界文学全集』にも収録されたが、世間的には知られなかった。1996年に次男の伊藤礼が削除部分を補った完訳版を新潮文庫から出版し、出版時に多くのマスメディアが取り上げ、初の完訳という誤報を流した。
作品
20世紀文学の手法

『雪明りの路』は、1920年から小樽高等商業学校の校友會誌、同人誌『青空』『信天翁』『椎の木』に発表したものと、未発表作品を収めている。当時『藤村詩集』から様々な詩集、『日本詩人』などの詩誌を愛読し、佐藤惣之助萩原朔太郎や、上田敏『海潮音』、堀口大學『月下の一群』などの訳詩集の影響を受け、アーサー・シモンズイエーツデ・ラ・メアなどの英詩の原文をあたっていた[2]。作品は北海道の自然を背景とした、自由詩型抒情詩であり、扉にはイエーツを引用しており、出版当時小野十三郎は「あなたは誰よりもよく深く詩の本質を理解している。あなたは深い大きな共感、そのむしろ潜行的な力強い伝搬力を真底から把握している」と評し、瀬沼茂樹は「いかにも青春らしい思慕や、哀愁や、憧憬が、北海道の厳しい自然と綯いあわされて、きわめて上品で、特有な詩趣を実現していると思われる」と述べている[23]。『冬夜』は1925年から『椎の木』、および伊藤と阪本越郎らによる第二次『椎の木』に発表された作品を収めて限定版として発行された。1954年刊『伊藤整詩集』はこの2詩集と、1929-30年に発表された作品、および1948年に発表された「鳴海仙吉の詩」を収めており、1958年新潮文庫版『伊藤整詩集』ではこれに、1957年に川崎昇夫人が没した際に書いた「川崎くら子夫人を葬る詩」を納めている。これらの詩の何編かは、小説『鳴海仙吉』『幽鬼の村』に挿入されている。『新心理主義文学』厚生閣 1932年

1929年からは『詩と詩論』に欧米の現代詩人の紹介を寄稿しており、1931年から1934年にかけてジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を進めていた伊藤は、ジョイスやマルセル・プルースト意識の流れの手法について論じた「新心理主義文学」を1932年3月に『改造』に発表。これらの作品が「二十世紀はインテリゲンチアの知性の内向する時代、感性の捌口を持たぬ時代」を背景にしており、彼らが「新しい文学の様態を提出したのは、最早古き様態の文学に盛ることの出来ない新しい現実を彼らが発見した」と述べた。この評論は『詩と詩論』を発行していた厚生閣書店から、春山行夫編集の「現代の芸術と批評叢書」の一冊として、同年4月にこれを含む『新心理主義文学』として刊行された。またその理論を「飛躍の型」「感情細胞の断面」「幽鬼の街」「幽鬼の村」などの実作として試みたが、「エッセイや小説はあらゆる種類の非難と嘲笑と否定と罵言と、また僅少の好意ある忠告」を受けた[24]小林秀雄は伊藤の「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」(1930)について評論「心理小説」で「極く普通の言ひ方で書かれた在来の小説が、本当に行き詰つてゐるのであるか、小説の極点は十九世紀で終わったと活動写真に色目を使ふのと、たまたま泣きつ面の前に新しいお手本がひろげられた気で、これだこれだと浮き腰になるのとどつちが一体利口なのであらうか」「作家にとつて生々しい問題は文芸史発達の上にはない。己れの支へる文芸理論の深化にあるのだ。」と評し、また丹羽文雄は「伊藤はジョイスが流行ればジョイスを真似、プルウストが流行ればプルウストを真似、『得能五郎の生活と意見』も何とかいう外国小説の真似だ」と批判した。これに伊藤は1947年になってエッセイ「『トリストラム・シャンディイ』と『得能五郎』」にて「ジョイスとロレンスの代表作を初めて日本語に移したのは私である。それは無意義であったろうか。その影響なしに当代の日本文学は成立しているであろうか」と反駁している[25]

横光利一機械」(1930年)、川端康成「水晶幻想」(1931年)なども、この新心理主義的技法を用いた作品と言われている。「機械」は発表当時小林秀雄らによっても激賞されたが、伊藤はこれをプルーストの影響とした上で「堀(辰雄)も私もやらうとしてまだ力が足りなかったうちに、この強引な先輩作家は、少なくとも日本文で可能な一つの型を作ってしまつた、という感じであった。」と述べている[10]
評論と創作

『小説の方法』(1948年)は近代日本文学を西欧文学と比較しつつ、初めて論理的、体系的にとらえた文芸批評であり[21]、「自分が文学をどのようなものと考えるべきか、また自分の創作の態度をいかに定めるべきか、という問題を中心として、ヨーロッパの文学と日本の近代文学を比較しながら」書いたと、『文学入門』序文で述べている。続いて書かれた『小説の認識』(1955年)は『小説の方法』を発展させた、1949年から1953年に発表した文学論を集めたもので、当時のブームにより新書版で刊行された[26]。これに本多秋五は『物語戦後文学史』で「マルクス主義芸術論を破ったこと」「「人格美学」なるものに終焉を宣言したこと」「現代では、力を持つものは「組織」であり、個人の生命のはたらく場所、その自由は微小だ、という認識に到達したこと」の3点を挙げている。ただし曾根博義は、志賀直哉に代表される日本的人格美学の形式である私小説も、「芸」への「移転」によって「本格小説」となりうることを示しており、またマルクス主義文学も「イデオロギー抜きの思考方法」として肯定されていると論じ、「組織」の絶対性と相対性は「その後の社会学や政治学の発展、構造主義的方法の普及などにより、今日ではほとんど常識化」されていると述べている[27]。またチャタレイ裁判の体験も元に、芸術は「生命の側に立ち、人間を抑圧する秩序に反抗するもの」という考えを示し、これを実作『火の鳥』で示してみせた[21]

『文学入門』(1954年)は、この2冊の結論を「できるだけ分かりやすい形で、文学の形式、その感動の働き、その文体、他の芸術との比較、という諸点からこの本を書いた」「現在のところ、この本が、私の到達点である」と序文で述べたものになっている。1950年頃に西田幾多郎が、谷崎潤一郎は人生をいかに生くべきかを書いてないから詰まらないと論じて、谷崎の評価が下がった時、「人間の生き甲斐は性的快楽だという人間観」と反論した[28]。1958年から刊行された『谷崎潤一郎全集』では全巻の解説を担当、自身の没後に『谷崎潤一郎の文学』として出版され、それまで無思想の作家とされていた谷崎への定説を覆してその思想を論じたとして、高い評価を受けた[29]

『得能五郎の生活と意見』は、1940年に発表された「鞭」「得能五郎の生活と意見」などをまとめて長編化したもので、日中戦争時代の梗塞状況に対して、私的な自己主張のみに限定して語るという、私小説の方法を逆手にとって、それをパロディ化した自己戯画によって風刺する文体を用いた。大和大学芸能科講師の主人公とともに、登場人物には当時の友人たち、福田清人、森本忠、蒲池歓一、十和田操、坂本越郎、春山行夫、一戸務、川崎昇らをモデルとしている。発表当時は中野重治『空想家とシナリオ』や、岡田三郎『伸六行状記』に比較論評され、また小林秀雄からは「文士得能五郎の生活紛失附他人生活に關する散歩的意見」、その意見が「子供らしい」と評したが、伊藤はこの作品について「軽い気持ちで自分の興味の対象を日常から取り上げて描くという随筆的なもの」と語っている(『感動の再建』所収「小説の復活」)。『得能物語』はこの下巻と言える作品で、「人間の鎖」(1941年8月)以降に発表された作品をまとめて1942年に長編として刊行された。主人公はカロッサの『ルーマニア日記』や乃木大将戦争詩を講義する中で、自身の私小説論も展開している。また戦後発行の版では、1941年12月の太平洋戦争開戦時の背景説明の追加や、大本営発表の引用部分の要約などの改訂がなされた[30][31]

戦後の『鳴海仙吉』はこの方法により、また詩・小説・戯曲・評論などのジャンルを取り入れる、ジョイス『ユリシーズ』の技法を用いて、自分を含めた戦時中の知識人への批判、反省を主題にしつつ、内向的、倫理的な作品となっている。主人公は非行動的な(ロシア文学の)オブローモフ的であるが、より卑小な人物像となり、笑いの要素が多くなったと自ら語っている[32]

その後のチャタレイ裁判について『伊藤氏の生活と意見』では芸術の正当性を述べるとともに、女性を含めた既成の性道徳への批判にも及んだ。これを読んだ『婦人公論』編集者が、女性への批判や考えについての連載を依頼し、戯文調の、女性を嘲笑するかのような批判から、人生論、文学論にまで及ぶエッセイ『女性に関する十二章』は、中央公論社から花森安治デザインの新書版で単行本化され、3か月連続ベストセラー1位となり、50万部を売り上げた。ここで取り上げた女性論、人生論は、『氾濫』『発掘』『変容』の長編三部作で作品化された[33]。『氾濫』執筆と同時期に新聞連載された『誘惑』は、『氾濫』と同じように裕福な家庭の問題を扱いながら、破滅的な物語にはならず、連載にあたって「技術的には、オペレッタ風の、歌謡を織り込んだ小説にするつもりである」(作者のことば)と語ったように、明るく、喜劇風に描かれている[34]。また『感傷夫人』は『女性に関する十二章』によるブームに続いて初めて女性誌に連載した長編小説で、男女の三角関係を現代的視点で描いたものだが、筋をそれ以上に紛糾させるような通俗的興味を狙う方法を取らず、また愛情の純粋な形を問いながら、思想的結末、小説的結末をつけずに、「人間の内心のつぶやき」を「作者が創始したといってもよい心理的な追及の仕方」によって詳細に書き込まれたものになっている[35]

『鳴海仙吉』は『小説の方法』と問いと答えの関係となっていると自身で述べていたように、伊藤の小説は自分の文学理論を実作に適用しただけとの見方をされることが多いが、中村光夫は「理論の単純な実作への適用ではなく、その基調をなすのは、彼の『詩』であるようです」と評している[36]。また江藤淳は「『氾濫』は『雪明りの路』を残酷に踏み躙っているように見えるが、それは彼が今でも『雪明りの路』を歩いているのだという自信があるからではないか」と発言している[37]


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