1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師。1945年に北海道の妻の実家に疎開、帝国産金株式会社落部ベニヤ工場勤務。戦後1946年に北海道帝国大学予科講師となるが、7月に上京、南多摩郡日野町に土地を買って山小屋風の家を建てて住み、「鳴海仙吉の朝」などを発表。1948年に鳴海仙吉ものを集めて長編『鳴海仙吉』として八雲書店に原稿を渡したが、印刷屋により差し押さえられて出版不能となり、新たな書き直しを行なって1950年に細川書店より刊行、インテリ層と文壇の実体についての自虐と風刺により新戯作派の作家ともみなされた[10]。 1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)、日本ペンクラブ幹事。1950年には『チャタレイ夫人の恋人』の完訳版を小山書店から刊行し、上下巻で20万部の売れ行きとなったが、わいせつ文書として押収され、小山久二郎とともに起訴された。この裁判の一審と平行して発表されたエッセイ『伊藤整氏の生活と意見』や、チャタレイ裁判のノンフィクション『裁判』も話題となり、1953年に『婦人公論』に連載したローレンスの思想などを紹介した戯文エッセイを、翌年『女性に関する十二章』として一冊に纏めたところベストセラーとなり、同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こし、また新書版ブームの口火ともなった[11]。この頃から原稿や講演の注文が殺到し、長編小説『火の鳥』も好評で、『読売新聞』年末の「1953ベストスリー」の記事では、評者10人のうち9人に選ばれている。1954年のベストセラーのうち、1位『女性に関する十二章』、3位『火の鳥』、5位『文学入門』を占め、評論『文学と人間』[12] などベストセラーとなり[13]、合わせて年間70万部を売り上げたという[14]。1953年の文壇高額所得番付でも8位となっている。 1954年に杉並区久我山に転居。1956年には『文学界』新人賞で石原慎太郎『太陽の季節』を強く推して議論を巻き起こした[15]。1958年東京工業大学教授昇格、パリで行われた国際ペンクラブ執行委員会で発表、その後タシュケントのアジア・アフリカ会議、ロンドンのイギリス・ペンクラブ例会に出席、ミュンヘン、ウィーン、イタリアなどを旅して、1959年帰国。1960年から招聘されてコロンビア大学およびミシガン大学で講義。帰国後、平野謙による「純文学歴史説」や、松本清張、水上勉らの社会派推理小説の流行に刺激され、「『純』文学は存在し得るか」を発表、「純文学論争」を引き起こした。 1962年日本ペンクラブ副会長、また小田切進、高見順らと日本近代文学館設立運動を始め、設立時の理事となり、初代高見順の後を受けて1965年から理事長。1963年『日本文壇史』により菊池寛賞受賞。1964年東京工業大学を退職、1967年日本芸術院賞受賞[16]、1968年日本芸術院会員。1966年の北海道文学展や、1967年に北海道立文学館設立にも協力[17]。 1969年に腸閉塞で入院、手術し、胃癌の診断を受け再入院、11月15日、癌性腹膜炎のため東京都豊島区上池袋のがん研究会附属病院で死去[18]。青山斎場で告別式が行われ、戒名は海照院釈整願。叙正五位、叙勲三等瑞宝章。『変容』に続く作品として『日暮れ』の腹案が準備されていた[19]。 1952年から連載していた『日本文壇史』は瀬沼茂樹に引き継がれ、1976年に完結した(単行本は1953年から1978年にかけて全24巻。伊藤分は18巻目まで)。 1970年に北海道塩谷に伊藤整文学碑が建立され、碑には詩集『冬夜』の中の「海の棄児」が自筆で刻まれている。また、この年芹沢光治良の推薦によりノーベル文学賞の候補者となっていたことが確認されている[20]。 1972年から1974年にかけ『伊藤整全集』(新潮社、全24巻)が刊行。1990年に渡辺淳一の発案により小樽市により伊藤整文学賞が制定された。 伊藤滋(都市工学、東京大学名誉教授、元早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。伊藤礼(エッセイスト、英文学者、元日本大学芸術学部教授)は次男で、下記の関連著作を刊行している。後年に父・整の訳書の改訂、日記の校訂編集も行った。 1950年6月、伊藤整が翻訳したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書に当るとして摘発を受けた。警視庁は1949年に発売された石坂洋次郎『石中先生行状記』を摘発したが世論の反発で起訴猶予となり、1950年1月にはノーマン・メイラー『裸者と死者』を発禁処分としたがGHQに「アメリカで公刊を許されたものがなぜ発売禁止になるのか」と抗議されて撤回しており、『チャタレイ夫人の恋人』も発売後に摘発を危惧されていた[11]。その際発行人の小山書店代表のみならず、翻訳者の伊藤整も起訴された。裁判では芸術性の高い文学作品を猥褻文書とすることの是非、翻訳者を罪に問うことの是非などが争われたが、1957年、最高裁は伊藤、発行人共に有罪とした。著者の『裁判』は、当事者の立場から、文学裁判を膨大かつ詳細な記録で問題提起した、ノンフィクションにして代表作のひとつである。また小山書店はこの裁判が始まると融資が受けられなくなり、経営が行き詰って倒産することとなった[11]。 この翻訳は1964年に、戦後では珍しい伏字を使って出版された。同訳での他の文学全集もそれに拠っている。なお完訳は1973年に、講談社文庫から羽矢謙一訳が刊行され、1975年の『世界文学全集』にも収録されたが、世間的には知られなかった。1996年に次男の伊藤礼が削除部分を補った完訳版を新潮文庫から出版し、出版時に多くのマスメディアが取り上げ、初の完訳という誤報を流した。
伊藤整ブーム
晩年日本近代文学館設立に尽力した(東京都目黒区駒場公園内)
没後
東京工業大学での英文授業を受けた奥野健男は、後に「伊藤整論」 を発表し、没するまで師事し『氾濫』で扱われる高分子学についても、自身の専門とする立場からの助言を行なった[21][22]。
関係者による伝記
伊藤礼『伊藤整氏 奮闘の生涯』 講談社、1985年
伊藤礼『伊藤整氏 こいぶみ往来』 講談社、1987年
奥野健男『伊藤整』 潮出版社、1980年
堀川潭『伊藤整氏との三十年』 新文化社、1980年(弟子による回想、実質は私家版)
チャタレイ裁判詳細は「チャタレー事件」を参照