伊藤整
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また戦後発行の版では、1941年12月の太平洋戦争開戦時の背景説明の追加や、大本営発表の引用部分の要約などの改訂がなされた[30][31]

戦後の『鳴海仙吉』はこの方法により、また詩・小説・戯曲・評論などのジャンルを取り入れる、ジョイス『ユリシーズ』の技法を用いて、自分を含めた戦時中の知識人への批判、反省を主題にしつつ、内向的、倫理的な作品となっている。主人公は非行動的な(ロシア文学の)オブローモフ的であるが、より卑小な人物像となり、笑いの要素が多くなったと自ら語っている[32]

その後のチャタレイ裁判について『伊藤氏の生活と意見』では芸術の正当性を述べるとともに、女性を含めた既成の性道徳への批判にも及んだ。これを読んだ『婦人公論』編集者が、女性への批判や考えについての連載を依頼し、戯文調の、女性を嘲笑するかのような批判から、人生論、文学論にまで及ぶエッセイ『女性に関する十二章』は、中央公論社から花森安治デザインの新書版で単行本化され、3か月連続ベストセラー1位となり、50万部を売り上げた。ここで取り上げた女性論、人生論は、『氾濫』『発掘』『変容』の長編三部作で作品化された[33]。『氾濫』執筆と同時期に新聞連載された『誘惑』は、『氾濫』と同じように裕福な家庭の問題を扱いながら、破滅的な物語にはならず、連載にあたって「技術的には、オペレッタ風の、歌謡を織り込んだ小説にするつもりである」(作者のことば)と語ったように、明るく、喜劇風に描かれている[34]。また『感傷夫人』は『女性に関する十二章』によるブームに続いて初めて女性誌に連載した長編小説で、男女の三角関係を現代的視点で描いたものだが、筋をそれ以上に紛糾させるような通俗的興味を狙う方法を取らず、また愛情の純粋な形を問いながら、思想的結末、小説的結末をつけずに、「人間の内心のつぶやき」を「作者が創始したといってもよい心理的な追及の仕方」によって詳細に書き込まれたものになっている[35]

『鳴海仙吉』は『小説の方法』と問いと答えの関係となっていると自身で述べていたように、伊藤の小説は自分の文学理論を実作に適用しただけとの見方をされることが多いが、中村光夫は「理論の単純な実作への適用ではなく、その基調をなすのは、彼の『詩』であるようです」と評している[36]。また江藤淳は「『氾濫』は『雪明りの路』を残酷に踏み躙っているように見えるが、それは彼が今でも『雪明りの路』を歩いているのだという自信があるからではないか」と発言している[37]平野謙は昭和初期の文学の流れを、第一に私小説に代表される伝統的リアリズム、第二にプロレタリア文学に代表されるマルクス主義文学、第三に20世紀の海外の新文学の刺激を受けたモダニズム文学の三派鼎立という図式であらわし、伊藤整の影響を大きく評価するとともに、マルクス主義運動に対する根深いコンプレックスを指摘している[10]

自伝的小説として、少年期を題材にした『少年』、小樽時代から上京までの青年期を題材にした『若い詩人の肖像』、また同じ舞台によるフィクション『青春』『幽鬼の街』があり、戦後に書いた『鳴海仙吉』も、自己暴露、自己分析的作品と言える。連載途中で未完となった『年々の花』は、日露戦争に参加した父昌整を一人の明治人として描こうとした作品で、1941年から構想し、旅順広島にも取材を重ねた上で執筆に取り掛かっていたものだった。

『日本文壇史』は、『群像』編集者大久保房男に「近代日本の「文壇外史」とでもいふべきもの」をと依頼されて、断ったものの再三の要請で承諾して1952年から連載を始めた。2年連載後に単行本第1巻刊行時には、「明治初年から坪内逍遥『書生気質』まで」の300枚を書き加えた[38]。文壇史の手法は、「作家詩人の悩み苦しみ喜びを生きた脈搏で感じとりたい人間的関心に訴えようとする」もので、ヴァン・ウィック・ブルックスによるアメリカ文壇史『花ひらくニュー・イングランド』が1952年に和訳されたことで伊藤整もそれを取り入れた[39]。この「挿話主義」手法の試みによって、明治で終わる『日本文壇史』に続いて、巌谷大四『物語大正文壇史』(1976年)『物語女流文壇史』(1977年)『瓦板昭和文壇史』(1978年)『私版昭和文壇史』(1968年)、本多秋五『物語戦後文学史』(1960-65年)、河盛好蔵『フランス文壇史』(1961年)、渡辺一民『フランス文壇史』(1976年)などが続いて出版されている[39]

『我が文学生活』全6巻は、戦後に書かれた主な随筆、評論を収める。この第5巻に収められた「石川達三の説に対する感想」(『群像』1957年3月)で「私自身は、生きているうちは発表しないかも知れないが、性的なことを、今の諸家の程度どころか、全然もっとソッチョクに、ロレンスミラーがやったよりもつと露骨に書きたいと長年考へてゐる。」「私は生きて人生を知ったのだから、それを書きたい」と述べ、これを谷沢永一は「彼の真骨頂をあらわす貴重な発言」「激烈でクソ真面目な作家根性」と評している[40]
著作リスト
詩集

『雪明りの路』椎の木社、1926年(木馬社、1952年、日本図書センター、2006年)

『冬夜』近代書房[発売インテリゲンチヤ社]、1937年(細川書店、1947年)

『伊藤整詩集』光文社、1954年(新潮文庫、1958年)

小説

『生物祭』
金星堂、1932年(短編集)

『イカルス失墜』椎の木社、1933年(短編集) のち新潮文庫

『街と村・生物祭・イカルス失墜』講談社文芸文庫、1993年


『石狩』版画荘、1937年(短編集)

『馬喰の果』新潮社、1937年(短編集)のち文庫

『石を投げる女』竹村書房、1938年(短編集)

『青春』河出書房、1938年(書下し) のち角川文庫、新潮文庫

『街と村』第一書房、1939年(短編集) のち講談社文芸文庫

『霧氷』三笠書房、1940年(『長篇文庫』1944年) のち角川文庫

『典子の生きかた』河出書房、1940年(書下し) のち角川文庫、新潮文庫

『吉祥天女』金星堂、1940年(短編集)

『祝福』河出書房、1940年(短編集)

『得能五郎の生活と意見』河出書房、1941年(『知性』1940年8月-1941年2月、短編「鞭」「得能五郎の生活と意見」などを改稿長篇化したもの) のち新潮文庫

『得能物語』河出書房、1942年 のち新潮文庫(短編「人間の顔」「安宅」などを改稿長篇化したもの)

『故郷』協力出版社、1942年(短編集)

『父の記憶』利根書房、1942年(短編集)

『童子の像』錦城出版社、1943年(書下し)

『雪国の太郎』帝国教育会出版部、1943年

『三人の少女』淡海堂、1944年(少女小説)

『微笑』南北書園、1947年(短編集)

鳴海仙吉』細川書店、1950年 のち新潮文庫、岩波文庫

『花ひらく』朝日新聞社、1953年(『朝日新聞』1953年5-7月) のち角川文庫

『火の鳥』光文社、1953年 のち新潮文庫、角川文庫

『海の見える町』新潮社 1954年(短編集)

『感傷夫人』中央公論社 1956年(『婦人公論』1954年1月-1955年12月) のち角川文庫

『町 生きる怖れ』角川文庫、1956年

『少年』筑摩書房、1956年

『若い詩人の肖像』新潮社、1956年 のち新潮文庫、講談社文芸文庫、小学館(「海の見える町」(『新潮』1954年3月)、「若い詩人の肖像」(『中央公論』1955年9-12月)、「雪の来るとき」(『中央公論』1954年5月)、「父の死まで」(『世界』1956年1月)などを加筆集成)

『誘惑』新潮社、1957年(『朝日新聞』1957年1-6月) のち角川文庫

氾濫』新潮社、1958年(『新潮』1956年11月-1958年7月) のち新潮文庫

『泉』中央公論社、1959年(『朝日新聞』1959年4-10月) のち角川文庫

『虹』中央公論社、1962年(『婦人公論』1960年1月-1961年4月)

『同行者』新潮社、1969年(『週刊新潮』1968年1-12月)

『変容』岩波書店、1968年(『世界』1967年1月-1968年5月) のち岩波文庫、小学館

『花と匂い』新潮社、1970年(『サンケイ新聞』1967年2-12月)

『年々の花』中央公論社、1970年(『小説中央公論』1962-63年、未完)

『発掘』新潮社、1970年(『新潮』1962年3月-1964年10月)

評論・随筆など

『新心理主義文学』厚生閣書店、1932年

『小説の運命』竹村書房、1937年

『芸術の思想』砂子屋書房、1938年

『一葉文学読本』第一書房 1938年

『現代の文学』河出書房、1939年

『四季 随筆集』赤塚書房、1939年

『私の小説研究』厚生閣、1939年

『文学と生活』昭和書房、1941年

『満洲の朝』育生社弘道閣、1941年(旅行記)。「満洲開拓文学選集11」ゆまに書房、2017年

『文芸と生活・感動の再建』四海書房 1941年

『小説の世界』報国社、1942年

『戦争の文学』全國書房、1944年

『小説の問題』大地書房、1947年

『文学の道』南北書園、1948年(『私の小説研究』加筆改題)

『小説の方法』河出書房、1948年、のち河出文庫(旧)、新潮文庫、筑摩叢書、
岩波文庫(校訂新版)

『伊藤整文学論選集』実業之日本社、1949年

『我が文学生活』細川書店、1950年

『性と文学』細川書店、1951年

『裁判』筑摩書房、1952年、のち旺文社文庫、晶文社、1997年(各・上下)

『伊藤整氏の生活と意見』河出書房、1953年(『新潮』1951年5月-1952年12月) のち角川文庫

『日本文壇史』18巻目まで。大日本雄弁会講談社、1953-1973年(『群像』1952年1月-)度々新版、講談社文芸文庫(改訂版)

『文学入門』光文社カッパブックス、1954年、のち光文社文庫、講談社文芸文庫(改訂新版)

女性に関する十二章』中央公論社、1954年(『婦人公論』1953年1-12月)のち角川文庫、中公文庫、ごま書房新社

『我が文学生活』全6巻 講談社、1954-1964年

『文学と人間』角川新書、1954年

『小説の認識』河出書房(新書)、1955年、のち新潮文庫、岩波文庫(校訂新版)

『芸術は何のためにあるか』中央公論社、1957年

『近代日本の文学史』光文社カッパブックス、1958年。新版校訂・夏葉社 2012年

『作家論』筑摩書房、1961年、のち角川文庫

『ヨーロッパの旅とアメリカの生活』新潮社、1961年

『求道者と認識者』新潮社、1962年

『愛と性について』「わが人生観」大和書房、1970年

『知恵の木の実』[41]「人と思想」文藝春秋、1970年(表題は『婦人公論』1967年2-12月)


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