伊藤整
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1956年には『文学界』新人賞石原慎太郎太陽の季節』を強く推して議論を巻き起こした[15]。1958年東京工業大学教授昇格、パリで行われた国際ペンクラブ執行委員会で発表、その後タシュケントアジア・アフリカ会議ロンドンのイギリス・ペンクラブ例会に出席、ミュンヘンウィーンイタリアなどを旅して、1959年帰国。1960年から招聘されてコロンビア大学およびミシガン大学で講義。帰国後、平野謙による「純文学歴史説」や、松本清張水上勉らの社会派推理小説の流行に刺激され、「『純』文学は存在し得るか」を発表、「純文学論争」を引き起こした。
晩年日本近代文学館設立に尽力した(東京都目黒区駒場公園内)

1962年日本ペンクラブ副会長、また小田切進高見順らと日本近代文学館設立運動を始め、設立時の理事となり、初代高見順の後を受けて1965年から理事長。1963年『日本文壇史』により菊池寛賞受賞。1964年東京工業大学を退職、1967年日本芸術院賞受賞[16]、1968年日本芸術院会員。1966年の北海道文学展や、1967年に北海道立文学館設立にも協力[17]

1969年に腸閉塞で入院、手術し、胃癌の診断を受け再入院、11月15日、癌性腹膜炎のため東京都豊島区上池袋がん研究会附属病院で死去[18]青山斎場で告別式が行われ、戒名は海照院釈整願。叙正五位、叙勲三等瑞宝章。『変容』に続く作品として『日暮れ』の腹案が準備されていた[19]

1952年から連載していた『日本文壇史』は瀬沼茂樹に引き継がれ、1976年に完結した(単行本は1953年から1978年にかけて全24巻。伊藤分は18巻目まで)。
没後

1970年に北海道塩谷に伊藤整文学碑が建立され、碑には詩集『冬夜』の中の「海の棄児」が自筆で刻まれている。また、この年芹沢光治良の推薦によりノーベル文学賞の候補者となっていたことが確認されている[20]

1972年から1974年にかけ『伊藤整全集』(新潮社、全24巻)が刊行。1990年に渡辺淳一の発案により小樽市により伊藤整文学賞が制定された。

伊藤滋(都市工学、東京大学名誉教授、元早稲田大学教授、元慶應義塾大学教授)は長男。伊藤礼(エッセイスト、英文学者、元日本大学芸術学部教授)は次男で、下記の関連著作を刊行している。後年に父・整の訳書の改訂、日記の校訂編集も行った。
東京工業大学での英文授業を受けた奥野健男は、後に「伊藤整論」 を発表し、没するまで師事し『氾濫』で扱われる高分子学についても、自身の専門とする立場からの助言を行なった[21][22]
関係者による伝記

伊藤礼『伊藤整氏 奮闘の生涯』 講談社、1985年

伊藤礼『伊藤整氏 こいぶみ往来』 講談社、1987年

奥野健男『伊藤整』
潮出版社、1980年

堀川潭『伊藤整氏との三十年』 新文化社、1980年(弟子による回想、実質は私家版)

チャタレイ裁判詳細は「チャタレー事件」を参照

1950年6月、伊藤整が翻訳したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書に当るとして摘発を受けた。警視庁は1949年に発売された石坂洋次郎『石中先生行状記』を摘発したが世論の反発で起訴猶予となり、1950年1月にはノーマン・メイラー裸者と死者』を発禁処分としたがGHQに「アメリカで公刊を許されたものがなぜ発売禁止になるのか」と抗議されて撤回しており、『チャタレイ夫人の恋人』も発売後に摘発を危惧されていた[11]。その際発行人の小山書店代表のみならず、翻訳者の伊藤整も起訴された。裁判では芸術性の高い文学作品を猥褻文書とすることの是非、翻訳者を罪に問うことの是非などが争われたが、1957年、最高裁は伊藤、発行人共に有罪とした。著者の『裁判』は、当事者の立場から、文学裁判を膨大かつ詳細な記録で問題提起した、ノンフィクションにして代表作のひとつである。また小山書店はこの裁判が始まると融資が受けられなくなり、経営が行き詰って倒産することとなった[11]

この翻訳は1964年に、戦後では珍しい伏字を使って出版された。同訳での他の文学全集もそれに拠っている。なお完訳は1973年に、講談社文庫から羽矢謙一訳が刊行され、1975年の『世界文学全集』にも収録されたが、世間的には知られなかった。1996年に次男の伊藤礼が削除部分を補った完訳版を新潮文庫から出版し、出版時に多くのマスメディアが取り上げ、初の完訳という誤報を流した。
作品
20世紀文学の手法

『雪明りの路』は、1920年から小樽高等商業学校の校友會誌、同人誌『青空』『信天翁』『椎の木』に発表したものと、未発表作品を収めている。当時『藤村詩集』から様々な詩集、『日本詩人』などの詩誌を愛読し、佐藤惣之助萩原朔太郎や、上田敏『海潮音』、堀口大學『月下の一群』などの訳詩集の影響を受け、アーサー・シモンズイエーツデ・ラ・メアなどの英詩の原文をあたっていた[2]。作品は北海道の自然を背景とした、自由詩型抒情詩であり、扉にはイエーツを引用しており、出版当時小野十三郎は「あなたは誰よりもよく深く詩の本質を理解している。あなたは深い大きな共感、そのむしろ潜行的な力強い伝搬力を真底から把握している」と評し、瀬沼茂樹は「いかにも青春らしい思慕や、哀愁や、憧憬が、北海道の厳しい自然と綯いあわされて、きわめて上品で、特有な詩趣を実現していると思われる」と述べている[23]。『冬夜』は1925年から『椎の木』、および伊藤と阪本越郎らによる第二次『椎の木』に発表された作品を収めて限定版として発行された。1954年刊『伊藤整詩集』はこの2詩集と、1929-30年に発表された作品、および1948年に発表された「鳴海仙吉の詩」を収めており、1958年新潮文庫版『伊藤整詩集』ではこれに、1957年に川崎昇夫人が没した際に書いた「川崎くら子夫人を葬る詩」を納めている。これらの詩の何編かは、小説『鳴海仙吉』『幽鬼の村』に挿入されている。『新心理主義文学』厚生閣 1932年

1929年からは『詩と詩論』に欧米の現代詩人の紹介を寄稿しており、1931年から1934年にかけてジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を進めていた伊藤は、ジョイスやマルセル・プルースト意識の流れの手法について論じた「新心理主義文学」を1932年3月に『改造』に発表。これらの作品が「二十世紀はインテリゲンチアの知性の内向する時代、感性の捌口を持たぬ時代」を背景にしており、彼らが「新しい文学の様態を提出したのは、最早古き様態の文学に盛ることの出来ない新しい現実を彼らが発見した」と述べた。この評論は『詩と詩論』を発行していた厚生閣書店から、春山行夫編集の「現代の芸術と批評叢書」の一冊として、同年4月にこれを含む『新心理主義文学』として刊行された。またその理論を「飛躍の型」「感情細胞の断面」「幽鬼の街」「幽鬼の村」などの実作として試みたが、「エッセイや小説はあらゆる種類の非難と嘲笑と否定と罵言と、また僅少の好意ある忠告」を受けた[24]小林秀雄は伊藤の「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」(1930)について評論「心理小説」で「極く普通の言ひ方で書かれた在来の小説が、本当に行き詰つてゐるのであるか、小説の極点は十九世紀で終わったと活動写真に色目を使ふのと、たまたま泣きつ面の前に新しいお手本がひろげられた気で、これだこれだと浮き腰になるのとどつちが一体利口なのであらうか」「作家にとつて生々しい問題は文芸史発達の上にはない。己れの支へる文芸理論の深化にあるのだ。」と評し、また丹羽文雄は「伊藤はジョイスが流行ればジョイスを真似、プルウストが流行ればプルウストを真似、『得能五郎の生活と意見』も何とかいう外国小説の真似だ」と批判した。


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